04.25
中華思想、これまでのまとめ(「12.中華思想+共産主義=強奪主義。他人を自分が英雄になるためのモブキャラのように扱うあの人は」)
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1.中国共産党を物語る3つのキーワード
2.強い者につき従って弱い者をいじめる事大主義
3.究極の「礼」としての死
4.儒教=ユダヤ教説
5.キリスト教を真似、人間を蟻塚とみなし、肉体ばかりでなく霊魂までも要求する宗教共産主義
6.国際共産党と「敗戦革命」、資本の弱体のためにくり返される「戦争」
7.「天皇」の由来
8.スーパーシティと日本人の「再教育」、最終目標は天皇の処刑
9.中東の多神教世界の中の一柱の神にすぎなかったヤハウェ
10.神との一体化で殺される魂
11.中華思想というハラスメント
12.中華思想+共産主義=強奪主義。他人を自分が英雄になるためのモブキャラのように扱うあの人は(2021年4月25日)
どうも日本はおかしい。
きっかけはいくつかありましたが、そのおかしさを突き詰めて考えるうちに、わたしは中華思想ということばに出会いました。
中華思想といってもその説明は難しいのですが、「他罰的な優越思想」という言い換えが、現段階ではしっくりきています。
他罰的で優越的な中華思想をもっともよく体現しているといえる組織のひとつが中国共産党で、その劣悪な実態を知るにつれ、えもいわれぬ日本のおかしさと無関係ではないと思い至りました。
そう思って調べてみると、ずっと以前から中国共産党を危険視して警鐘を鳴らしている方はちゃんといて、でもそういう情報は、テレビや新聞という多くの日本人が日常的に目にする大手メディアから流れてくることはけっしてありません。
日本で美徳とされている受け身の生き方をしていては、自身の身の危険を予感することさえできないわけです。
というより、国民が自身の身の危険を予感させまいとしているかのように思え、日本社会はむしろ、日本人の美徳に、わざとつけこむようなやり方でつくられているようにさえ思えるのです。
このサイトでは、『そして安倍晋三は終わった』が引用・参考にしている図書や、その後出会った中国共産党の実態を理解しやすい書籍等を紹介してきました。
でも、発見するたびに備忘録のように書いてきたため、どうしてもひとつひとつの記事が断片的になっており、それゆえ、このあたりで一度、中華思想や天命思想、中国共産党についてこれまで書いてきたことをまとめることにしました。
自身の思考の整理もかねていますが、日本を守りたいと願うだれかの、なんらかのきっかけになるならなおうれしいです。
1.中国共産党を物語る3つのキーワード
日本では大手メディアが報道しないために、一般的に中国や中国共産党について、話題にのぼらない。
中国共産党の実態をつかむのに、わたしにとって理解しやすかったキーワードは、中華思想、天命思想、華夷秩序の3つで、かんたんにいうと以下の通りである。
・中華思想: 中華の天子が天下(世界)の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると考えること。
・天命思想:「天」は「天子」という人間に統治権を委譲して世界を統治し、「天子」に選ばれて天命を下された人間が皇帝すなわち世界の統治者となると考えること。「天」はキリスト教でいうところの唯一絶対の「神」にあたる。
・華夷秩序:世界は華(中華)と夷(蛮族)に二分されており、中国皇帝を頂点とする階層的な国際関係こそが理想世界であると考えること。
つまり、「天命をうけた世界の中心」に対する肥大した妄想が、自身を認めない他者を「蛮族」と決めつけ、一方的な序列をおしつけて罰を与え、自身が「天」から世界の統治権を委譲された「天子」であることを正当化しようとする「他罰的な優越思想」が中華思想である。
しかし、支配権を委譲する誰かを選んで天命を下せる「天」は、同時に支配権の委譲を撤回することもできる。
もし、「天子」が不正を行ったり、世が乱れるなど「天」の心情に背く統治がなされたりすると、「天」はいつでも自らの下した天命を取り消し、べつな人間を「天子」として選びなおして天下の支配権をその人に譲ることができる。
それが「革命」である。
中国の歴史は革命のくり返しであるが、それは「天」による支配権は都度べつな人に移ると考えているから起こるのであり、革命も「天」の願いを叶えるために必要なことだと考えているために破壊や殺人も、正しい、むしろ推奨されるべきことになるのである。
■主な関連記事・書籍
vol.4『天皇がわかれば日本がわかる』と「天命を受けた地上の統治者」の大暴走
『中華思想の嘘と罠 中国の正体を見る』と地球平面説を唱える中華思想
2.強い者につき従って弱い者をいじめる事大主義
中華の概念の根本となっているのは儒教であるが、天命思想による華夷秩序により、儒教では基本的な概念に平等という考えをもたない。
それゆえ中華思想の下では身分制度のような徹底的な序列秩序ができあがるが、徹底的な序列秩序の中で、自国を大いなる華の一部をなす「小中華」と自称したのが、李氏朝鮮(1392~1897年)である。
李氏朝鮮は、中国(明)を「天朝」と呼んで尊んだ。
中国皇帝が天命によって地上を支配する唯一人であるため、支配下におかれている国としてそう呼ぶのが「礼」であるとし、明に歯向かうことは天子の国を犯すことになると正当化した。
これを事大主義という。
・事大主義:小国が礼をもって大国に事えること。勢力の強いものにつき従い、強い者を盾に弱い者いじめをする行動様式。
事大主義者は、自身がつき従う人が天命をうけた天子であり「地上を支配する唯一人」であるとして、それを盾に他者にたいして尊大に振舞う。
彼らの論理では、「地上を支配する唯一人」につき従わないのは、天命を悟れていない愚か者なのである。
そういう者は「礼」を欠く無礼者であり、「天子の国を犯す」よため、動物のように一方的に上から裁いて調教し、場合によっては殺して当然であると考えるのである。
さて、コロナパンデミックで、自粛要請下で営業をする事業者や、県をまたいだ移動をする人を叩く「自警団」が出現しているが、彼らにも事大主義者の思考がみられる。
彼らはものごとの善悪を法律とは無関係のところで勝手に決め、それを守らない人には自分が罰を下してよいと思い込んでいる。
自警団にとって、彼らが自主的に従っているルールに従わない他者を罰することは「正義」だが、その「正義」を、彼らは「医療関係者」や「人の命」というだれも否定できない「強いもの」を盾にとってふりかざしている。
自警団の行動様式は、強いものを盾に弱いものをいじめる事大主義者そのものであるが、事大主義者の存在は、事大する「天朝」なしにはありえない。
自警団の「正義」は、一般人にとっては認知の歪みによる迷惑・暴力行為にしか映らないが、彼らにとっては、「天朝に事大する」という大義名分があり、そのための暴力を正当化する。
目的遂行のためにはルールもマナーもおかまいなしに、パシリに徹する。
これが中華思想と事大主義者の特徴である。
■主な関連記事・書籍
vol.9『日本が自滅する日「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』と巨大な強盗・日本政府
3.究極の「礼」としての死
中華思想の源は儒教で、儒教の祖・孔子は、「仁」と「礼」を重要視した。
「礼」とはつまり形式のことで、孔子は、「礼」がどれほど煩瑣なものであっても、命懸けで守ってこそ人間社会と社会が成立すると説いた。
しかしそれは反対にいえば、儒教ではそのままの人間を認めないということである。
「礼」を知らない人間は蛮族、つまり動物に等しいと考え、人間は「礼」という秩序で教化(教育ではない)してはじめて人間になると考え、「礼」を重んじない人を軽視し、一方的に上から裁くという態度につながる。
つまり中華思想とは差別を重んじることであり、差別を正当化する歪んだ優越思想である。
中華思想では自身に文化や歴史がないため、相手の文化や歴史を認めない。
人間にとってそれまで生きてきた文化や歴史を失うことは死ぬことに等しいが、中国では「革命」により「天朝」が変わるごとに文化と歴史の破壊がくりかえされてきた。
そのため、「天朝」となるには相手の文化や歴史を破壊することが必須であると考えるが、破壊を正当化するために「礼」をもちだす。
「礼」の証として、自身が大切にしているものを手放させたり、それまでの自ら文化や歴史を捨てさせたりし、「礼」の証として差しださせるものの究極は命である。
中国共産党の幹部たちは、臓器に病気がみつかると移植手術を行い、それゆえ長生きの傾向があるというが、2018年、中国では、臓器移植の件数が2万件を突破し、世界第2位の臓器移植大国となった。
しかし死刑囚を計算に入れてもドナーの数が合わず、違法な臓器収奪を行っているといわれ、中国共産党は、移植希望者が現れたら臓器を用意するという「オンデマンドの」臓器移植とそのための臓器収奪が数十憶ドル規模のビジネスと化しているという。
臓器の主な提供元は、法輪功という健康法を修練する団体の信者であり、彼ら「良心の囚人」から長年にわたり、中国全土で強制的な臓器摘出が行われてきた。
中国における宗教活動は中国共産党の許可が必要で、宗教団体はその教えを通じて社会主義や共産主義に誘導されなければならず、キリスト教教会が用いる聖書には、孔子や習近平のことばや思想が引用されているという。
ならば、中国で信者が1億人を超えるという法輪功もまた、孔子が説いた「『礼』がどれほど煩瑣なものであっても命懸けで守ってこそ人間社会と社会が成立する」という教えなどが、中国共産党に都合よく歪められて用いられているはずで、「良心の囚人」と呼ばれる「自由意志による臓器提供」は、信者の信仰心につけこみ、歪められた自由意志の下行われているのではなかろうか。
中国共産党は、「孔子学院」などを通じて、世界中に社会主義や共産党の思想を刷り込むための浸透工作を行っている。
ならば以上のような、孔子や習近平の思想を刷り込む工作活動が中国国内だけで行われているとは考えにくく、むしろ、同じような手法が世界じゅうでとられていると考えられる。
日本においても、一見聞こえのいい、だれもが否定できない大義名分を掲げて、その実、中華思想や天命思想、華夷秩序や事大主義を刷り込む中国共産党の工作員が活動していると考えるのが妥当である。
■主な関連記事・書籍
『儒教 怨念と復習の宗教』と、みじめな孔子の復讐心による詐欺師的人生
vol.8『中国の移植犯罪 国家による臓器狩り』と「善意の犠牲」を強いる天命を受けた地上の統治者
続きは、今後ここに追記していくか、「中華思想、これまでのまとめ2」をつくるなどします。
中華思想、天命思想の源となっているのは儒教であるが、儒教の「ジュ」はユダヤ(Jews)のジュで、儒教は孔子が編纂したユダヤ教であるといわれている。
ならば、中華思想、天命思想の源はユダヤ教である。
ユダヤ教の教えの一部をキリスト教は引き継いでいるが、同じ神ヤハウェを「主」と崇めるユダヤ教とキリスト教の違いが「イエスを救世主として認めるか否か」とされ、イエスを救世主として認めず、「天命を受けた世界の中心」という儒教由来の天命思想を説くキリスト教があるなら、それはキリスト教の仮面をかぶったユダヤ教ということになる。
一部のキリスト教はユダヤ人を忌み嫌い世界中で迫害しているが、仮面をはがせばどちらも思想の根幹はユダヤ教であり、ユダヤ人迫害の根幹はキリスト教の誕生であるのだから、世界中でみられるキリスト教徒によるユダヤ教徒の迫害は、つまりはユダヤ教同士の内紛のようなものである。
彼らが行う「迫害」は、自分たちに都合のよい教えを正義と呼び替えて極端な他罰を正当化しているのであり、それはまさしく中華思想と天命思想による華夷秩序の強制である。
極端な他罰が正義であるという常軌を逸脱した点に疑問ももたずに「正義」をふりかざすのは、「自警団」よろしく「小中華」を自称する強いものを盾に弱いものいじめと暴力を正当化する事大主義者である。
また、儒教の歴史は「原始儒教」「新儒教」「新儒家」の三期に区分でき、「原始儒教」では主として祖先崇拝などのシャーマニズム的・儀礼的な信仰として続いていた。
「儒」にはもともと、祖霊の祭祀などを行う人びとを指す「巫祝」(原始宗教で神事をつかさどる人)の意味があり、ジャーマニズムとは、神や霊魂と直接に接触・交流し、託宣、予言、病気治しなどを行う宗教的職能者シャーマンを中心とした信仰をいう。
母が「儒」だったとされる孔子は、子どもの頃から原始儒教の祭儀を真似ていたという。
原始儒教の祭儀は先祖崇拝を重要視し、神や霊魂と直接交流して予言などを行うシャーマニズム的信仰であり、祭壇にいけにえを捧げるなどするが、それはユダヤ教徒が聖典とする旧約聖書にある礼儀と多くの共通点をもち、その旧約聖書の正統な王朝が古代三王朝(夏・殷・周)であると、孔子は主張した。
さらに孔子は、自身の王朝を創ろうと自身を聖人化した。
卑賎の生まれの孔子が、自身が聖人であることの根拠としたのが「古代三王朝の礼儀を極めた」とことであったが、夏王朝(紀元前21世紀)には、旧約聖書に描かれている古代イスラエル12部族とよく似た特徴をもつ民族(九夷)が渡来した痕跡がある。
九夷はやがて多くの中国人と合流して東夷となり、その民族が孔子が誕生した春秋時代という混とんとした時代の引き金となったとされる。
春秋・戦国時代に排出した諸子百家や、秦の始皇帝の肖像画も西アジア人特有の鷲鼻が特徴的で、始皇帝は言い伝えでは「目は青く西洋人のようであった」ということから、その出自がイスラエルにあると考えられる。
中華思想の選民意識はユダヤ教に由来するが、現在の中国は嘘と隠蔽、改ざんを恥としない。むしろ正当化し、歴史書も誇張されて書かれている。
つまり中華思想、天命思想の持主の優越意識もまた、粗雑で表面的、自己中心的に肥大化したチャイナクオリティである。
選民と優越意識をもち、自己を過大に評価して好戦的なのは、それに共鳴しつづける愚か者から偽りの称賛を受けて自身を慰めるほかに他人から意識を向けてもらう術を知らないからである。
それはいかにも愛されずに育った、いまもまただれからも愛されずに虚勢を張る、哀れでみすぼらしい人の特徴である。
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『儒教とは何か』と「博愛は偽りの愛、愛は親しさの度合いに比例する」儒教
『儒教 怨念と復習の宗教』と、みじめな孔子の復讐心による詐欺師的人生
5.キリスト教を真似、人間を蟻塚とみなし、肉体ばかりでなく霊魂までも要求する宗教共産主義(2020年5月16日追記)
マルクス主義などの共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざす、と聞こえのいいのいいことをいう、しかし実際は、財産の共同所有が支配階級のあいだだけで行われるブラック企業のような体制である。
マルクスは宗教を、「悩める者のためいきであり、心なき世界の心情でもあるとともに、精神のない状態の精神だ。それは民衆の阿片なのだ」と述べ、「民衆の幻想的幸福」としたが、一部の共産主義は宗教に対して否定的で、実際、ロシア革命以降、ソ連やアルバニア、中国などの共産主義国家では政策としての宗教弾圧が起こり、聖職者が殺害されたり教会が破壊されたりした。
共産主義は反宗教主義と親和性が高いが、しかし、その共産主義はキリスト教を真似る。
共産主義は「人神」思想であり、キリスト教を真似たニセモノの宗教の特色をもち、それゆえ「独裁者に従順な羊となる」ことを求める。
そうして共産主義者は「独裁者に従順な羊」の最大幸福、いわゆる「最大多数の最大幸福」をいつも口にする。
しかし、人類愛の仮面をつけてはいても、「神なき人類愛」は人間を蟻と見なす。
「神なき人類愛」は個々の人間にひそむ神性を認めないため、「最大多数の最大幸福」という大義名分のもとに、共産主義社会の邪魔となる独裁者に従順でない人間を平気で抹殺し、人間を蟻塚のように扱う。
そして蟻には秩序があっても「自由」はない。
人間を蟻塚のように扱う最たる例が中国共産党で、中国は無神教社会であり反宗教社会といわれるが、じつは一神教以上に「一」を妄信する社会でもある。
中国は「一帯一路」など「天下統一」に向けた動きを活発化させているが、「天下統一」はただ世界の覇権を握るということにとどまらない。
衣食住や、思想にいたるまですべてを「一つ」にすることを理想としている。
中国人にとっては「一」こそ絶対の神である。
すべてを一元化することを理想とし、絶対多元的な存在を認知しないのが中国共産党の本源的な思考で、それは儒教に限ったことではない。
神の名を口にしないだけで、その実態は、一神教以上に絶対神をもつカルトな「一」信者である。
中国が無神教を謳う共産主義である一方、宗教の原則を組み込んだ「宗教共産主義」という共産主義の形態がロシアに存在した。
20世紀初頭のロシアでは、レーニンによるボルシェビキが台頭する前、一部の知識人が「マルクス主義の代替手段として」、キリスト教のイデオロギーを組み込んだ共産主義の形態の実施を提唱している。
キリスト教共産主義者は、マルクス主義の無神論などには反対する。
しかし、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」や「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから」などという聖書の言葉を根拠に、資本家が労働者階級から剰余価値を搾取して利益を得る経済的な対策や、資本主義が社会主義に入れ替えられ、最終的には共産主義に発展するといった政治的な方針には同意する。
支配階級の搾取を非難し、庶民の味方を装いながら、実際は神のことばを用いて私有財産をもつことに罪悪感を抱かせ、自己で所有するより指導者に預けた方がより神が喜ぶ使い方ができると思わせて手放させる。
財産所有の自由だけでなく人間のさまざまな自由を奪い、「神のことば」という強いものを盾に、自身に従順な弱いものをいじめる事大主義が、キリスト教共産主義者の本質である。
共産主義の行きつくところは霊肉の死である。
神の祝福である自由を放棄させられることで、人間は人間であることをやめ、指導者の奴隷となり下がり、霊的に死ぬ。そして肉の面でも死ぬ。
この霊肉共に人を殺す共産主義の教義は、もとは秘密結社イルミナティの教義といわれる。
「共産主義」の名は罠で、マルクスが「アホ、悪人」とみなした無産階級や知識人を誘惑してサタン教の教えを実現することが目的であるとされるが、イルミナティはNew World Order(「新世界秩序」)を目指しているといわれる。
新世界秩序とは、主権国家の枠を超えた世界共通の価値目標と制度とを形成しようとする構想で、その目的に私有財産の廃絶という共産主義的目的が掲げられ、コロナパンデミックは経済的に疲弊させるための計画の一環とされている。
イルミナティが掲げる「国家の枠を超えた世界共通の価値目標と制度」とは、漢以後の儒学者が唱えてきた「天下一国主義」とおなじ理念で、「世界はすべて一つにし、衣服も食事もすべて同じなのが大同の世界というユートピア」であり、それが「人類の至福千年の到来」としている。
彼らは「三教合一」「万教帰一」と同じカルトな「一」信者で、それを現在牽引しているのが中国共産党である。
■主な関連記事・書籍
『ドストエフスキーと共産主義』と、キリスト教を真似たニセモノの宗教の特色「人神」思想により「独裁者に従順な羊となる」ことを求める共産主義者
「共産党へ受け継がれた秘密結社イルミナティの教義」と共産主義者にみられるイエズス会的性質
『儒教の本質と呪縛 社会をゆがめる根源』と中華式「右でも左でもない」儒教、その排他性・独尊性がもたらす禍
6.国際共産党と「敗戦革命」、資本の弱体のためにくり返される「戦争」(2020年5月17日)
共産党は、秘密結社イルミナティの教義が受け継がれたサタン教の教えを実行する実行部隊である。
つまり中国共産党の悪事の数々は、「サタン教」の教えの実行である。
中国は無神論を自称しているが、その実、一神教以上に「一」を信仰するカルトな性質をもっている。
また、共産主義の中には、宗教共産主義という宗教の原則を取り入れた共産主義も存在する。
ならば、日本においても、宗教の仮面をかぶった共産主義への誘導を担っている宗教団体があると考えるのが自然で、共産主義にも宗教にもなじみがないに日本においては、「神のことば」と共産主義思想を混同させて誘導するのは、世界中で工作活動を行っている彼らには、きっとたやすい。
共産主義とは、つきつめて単純化するなら「生産手段を国有化し、一党独裁のもとで徹底した経済的平等を目指す考え方」で、その実行には「一党独裁」を必要とする。
一党独裁は、権力が唯一の政党に集中され、他党派の活動が禁止・弾圧されている状態で、ドイツのナチス党やイタリアのファシスト党など、左翼右翼を問わない。
「コミンテルン」は、1919年、歴史上初の社会主義国家ソ連で設立し、その支部として世界に共産党を設立した。
「世界共産党」ともいわれたコミンテルンの共産主義者たちは、世界に共産主義運動を拡大し、資本主義諸国同士を戦わせ、共産主義の聖地であるソ連を守るために、各国で盛んにスパイ活動、浸透工作を行った。
コミンテルンを設立した革命家レーニンは、テロリストの弟であり、マルクス主義者であったが、彼にとっての「平和」は「戦争がない状態」ではない。
レーニンは、金持と貧乏人という格差は、資本主義社会で土地や資金、工場などの「生産手段」の私有化を認めているために生まれるとした。
資本家たちが国家を牛耳っているあいだは、マーケットの奪い合いによる帝国主義戦争は避けられず、それが戦争の根本原因となっている。
そこで労働者による政党、つまり共産党が政権をとり、共産党主導で「武力によって強制的に」地主から土地を取り上げ、会社経営者から資金と工場を取り上げ、国有化、つまり労働者全員で共有するようにすれば格差は解消され、労働者の天国が実現できるとしたのである。
レーニンや共産主義者にとっては、平和とは「世界中で労働者革命を起こし、資本家を徹底的に排除して、共産党による独裁政権を樹立すること」を意味し、そしてこのレーニンのイデオロギーは、いまも変わらず共産主義者に受け継がれている。
つまり、世界を共産主義化するためには共産党の一党独裁が必要で、共産党の一党独裁のためには資本家の弱体化が必要で、資本家の弱体化のためには戦争が必要だというのである。
そして共産主義者は、明確な共産党員だけでなく、その正義感に共感した知識不足の一般人まで利用して、共産主義を浸透する工作を世界中で行っている。
・公然の党員
・非公然の党員
・同伴者(フェロー・トラベラー)……共産党が示した特定の問題についての対応や解決策への強い共感から、共産党のための活動をする非共産党員。
・機会主義者(Opportunists)……選挙での票や賄賂といった個人的な利益のため、一時的に共産主義者たちと協力する人たち。
・デュープス(Dupes)……間抜け、騙されやすい人々という意味。明確な意思を持って共産党のために活動をする人々ではなく、ソ連やコミンテルンによって運営される政党やフロント組織が訴える普遍的な“正義”に対して情緒的な共感を抱き、知らず知らずのうちに共産党に利用されている人々
そこで、「コロナパンデミック」である。
ほとんどの国・地域において感染地域の封鎖や外出禁止(ロックダウン)、出入国の制限等の措置が強化されているため、通常の経済活動が一時的に著しく制限され、人々の消費や生産活動に深刻な影響を与え、「世界経済が同時に凍りつく」状況は、世界戦争が起きている状態に等しい。
そもそもコロナパンデミックは、武漢で発生した感染の情報を中国共産党が隠ぺいしたために被害が拡大した。
中国共産党が早い段階で情報を開示していれば、感染者の数はいまの5%にとどまったともいわれているが、中国共産党が世界の資本家を弱体化させ、それぞれの国で「共産化」することを目的としていたために早い段階の情報を隠蔽し、あえてパンデミックを止めなかったと考えると、辻褄が合うことだ。
資本力が落ちると人は共産主義を望むようになるが、コロナパンデミックは、共産主義者が世界を共産化するために周到に仕組んだ、「敗戦革命」の一環なのである。
そして、中国共産党との関係を続ける限り、同じようなことはまた起こる。
中国共産党のみならず、共産主義者と関係を続ける限り、規模の差こそあれ似たような状況に巻き込まれる。
彼らはやけに好戦的で、日常的に宣伝と扇動を行い、つねに上から一方的に他人を裁いてまわり、日本を蔑む。
営業妨害をもいとわない彼らが「世のため人のため」という大義名分を振りかざして争いごとを起こす目的は、相手の資本力を落とすことである。
さまざまな仮面をつけ、耳障りの言いことばを用いて彼らが戦う真の目的は、「敗戦革命」による日本の「共産化」である。
■主な関連記事・書籍
『日本占領と「敗戦革命」の危機』とコロナパンデミックによりつくりだされる経済的敗北、およびそれに乗じた革命の準備を進める共産主義者たち
『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』と世界を共産主義化するための日常的な宣伝と扇動
『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』と意図的に不況をつくりだし救世主を自演する共産主義者
7.「天皇」の由来(2020年5月19日)
天皇の称号はいつ誕生し、天皇はなぜ続いてきたのか。
なぜ続いてきたのか、の答えは、以下のふたつである。
①天皇(家)が滅びなかったから。
②「その時々の日本の政治権力や主導勢力が、『日本は、律令国家の直系の子孫・末裔である』という基本的性質を変更したくなかったから。
日本の歴史は、「日本の政治権力の正統性は、律令国家の直系の子孫である」という事実に根拠があり、日本の政治権力の担当者や主導者はそう思っている。
天皇は「倭の五王」の子孫であり、律令国家の長・君主であり、つまり天皇とは日本の王である。
大日本帝国憲法は、その第一条で「大日本帝国ハ、万世一系ノ天皇、之ヲ統治ス」とし、日本国憲法の「象徴天皇」がわかりづらいにせよ、天皇が王であるという基本性質は、律令時代からずっと変わっていない。
「天皇」の「天」は天であり、「皇」は「輝き」という意味である。
つまり「天皇」は「天の輝き」という意味であり、天皇とは「北極星」=「天皇大帝」のことである。
中国で、漢代、当時の大学者鄭玄が『周禮』に、「天の最高神である昊天上帝とは、冬至に王が都の南の円丘で祭る、天の中心である「天皇大帝」、すなわち「北極星」のことである」という注釈をつけている。
また孔子も『論語』で、「徳を根本に据えて政治を行うと、自ずから天下の人々が、北極星を中心に回るように帰服する」ということをっている。
当時、北極星は天の中心、宇宙の中心と考えられていた。つまり天の星々は、北極星を中心に回っていると考えられていた。
北極星を中心に運行する天のあり方が、そのまま人間界(=政治秩序)に重ね合わされたのが東アジアの政治思想である。
「天皇」は、天の中心であり、政治の中心であるという意味をもつ儒教思想に由来する称号である。
これは、中国と交渉をもつようになって中国の政治思想に影響されてつけられたものであるが、中国で「天皇」号はあまり使われない。
一時期、則天武后の時代に「皇帝」号を「天皇」号に変えたことがあるが(679年)、この時代以降、再び「皇帝」が使われつづけ、「天皇」号は一度も使われなかった。
それに対し、日本はずっと「天皇」号を使ってきた。
東アジアの政治的伝統では、君主の地位や君主号は、臣下が推戴・献上する形式をとり、「天皇」の称号は、実際は6世紀に百済から日本に渡ってきて儒教を伝えた「五経博士」が伝えたとされる。
「天皇」号の厳密な使用開始年代の記録はないが、そのヒントは、隋王朝の大業3(607)年、つまり推古15年に遣隋使が中国(隋)の皇帝(煬帝)にもっていった「国書」の書き出しにある。
あの有名な「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。云々」である。
倭国の使者が差し出した国書に「天子」という称号が使われているが、律令の儀制令では、「天子」は「皇帝」「天皇」とともに、日本の君主の公式の称号である。
厳密には君主が宗教行事を行うときの称号だが、中国にとっての「天子」号はそうではなく、「天」から「命」を受けてこの世を統治するただ一人の天の代理人である。
さらに、倭国の使者は、世界の中心・文明の地である「中華」である皇帝にたいして、倭国は倭国を「日出る国」、隋を「日没する国」とし、倭国がこれから繁栄する国であり、隋がこれから衰退する国であるように表現した。
中華の地は世界にひとつであり、それゆえ「天」から「命」を受けた「天子」は、世界の中心である中国に、ただ一人しかいないはずである。
5世紀の「倭の五王」までは中国の属国であった倭国が、隋の時代には、中国とおなじように「天子」号を使って「中国と同じような世界の中心・「中華」の地」であるという意識を出現させている。
その倭国の大国意識にブチ切れた隋の煬帝は、使者に対し、「蛮夷の書、礼を無みするものあり」とした。つまり、「この無礼者めが」というのである。
この推古15年の遣隋使は、4月に隋の使節を伴って帰国したが、9月に隋使が帰る際に託した煬帝宛の国書では、その書き出しが以下のようになっている。
「東の天皇、謹んで西の皇帝に白す」
ここではっきりと「天皇」号が使われ、その後日本は「天皇」号を使いつづけている。
推古朝は、推古11(603)年には冠位十二階という制度が、推古12(604)年には、十七条憲法が作られたように、古い大和王権の部族制の流れをひく氏姓制度から、あたらしい制度に移ろうとしていた過渡期であった。
そして律令制を取り入れた結果、日本は、中国の政治秩序から離れて、この日本列島に立て籠るようになった。
同時に、氏姓制度という旧体制から、中国のような国家、つまり「小中華帝国としての日本」の形成を目指すようになったのである。
自身が世界の中心であるという意識が出現しても、その現実が意識に追いつかず、意識と現実が大きく矛盾・乖離するのが「天命を受けた世界の中心」を自称する天命思想である。
律令制に移った日本は、中国の属国(外臣)であることをやめたが、政治システムは中国化したのである。
このことによって、本音と建前、表と裏という、意志や信念ではなく形式や立場を重んじる二重構造ができ、日本の歴史において、意識と現実の矛盾・乖離による問題がくり返されることになる。
そして日本の政治制度は、本質的にこのときからなにも変わっておらず、その「天皇」を処刑したがっているのが中国共産党である。
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8.スーパーシティと日本人の「再教育」、最終目標は天皇の処刑(2020年5月25日)
中国共産党は、顔認証AIカメラを利用した監視統治強化を行っており、中国全国ではすでに27億台の監視カメラが設置されている。
一人当たり2台の監視カメラが中国人民を見張っている計算になるが、とりわけ顔認証カメラについては、2018年末の2億台から2020年までにさらに4.5億台に拡大する計画だとしている。
画面に映る人間の身元を数秒で割り出す高性能のカメラが中国の人口2~3人当たりに1台の割合で配備されているが、その監視カメラの最大集中地域が、ウイグル人への迫害が行われている新彊地域である。
中国共産党は、ウイグル人はテロリスト・犯罪予備軍という前提で監視統治強化を行っており、ウルムチ市では交通違反者の顔を大画面に晒す形で社会制裁が行われている。
中国は無神教を掲げる国であり、それゆえ人びとの信仰心を認めない。
中国共産党はウイグル人にたいしてテロリスト・犯罪予備軍という前提で監視統治強化を行っているが、迫害されたウイグル人は拘束されたあと、いわゆる「再教育施設」に収容され、早朝から深夜まで再教育という名の洗脳を受ける。
革命歌を歌わされ、食事前には「党に感謝、国家に感謝、習近平主席に感謝」と大声でいわされ、自己批判や被収容者同士の批判を強要される。
「ウイグル人に生まれてすみません。ムスリムで不孝です」と反省させられ、「私の人生があるのは党のおかげ」「何から何まで党に与えられました」とくり返し感謝を強要され、しまいには「私は党の下僕です」と何度も唱えさせられる。
自身の自由な意志とはべつな意志を党によって強制され、党への称賛が口先だけで形式的だと党に判断されると厳しい拷問を受ける。
法輪功にせよウイグル人にせよ、中国共産党が宗教を弾圧するのは、その信仰心を恐れているからである。
無神教を掲げる中国共産党が、世界を統一し、一元化することで最終的に目的としていることは、人びとの信仰心を破壊し、人びとから信仰心を奪うことで、世界を神のいない場所にしようとしているのである。
多くの日本人は自身の信仰心には無頓着だが、日本古来の宗教は神道で、神道では身の回りのあらゆるものに神が宿ると考え、その神がみを敬う。
神道の祭祀施設は神社であり、神社には産土神や天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られている。
神社は全国におよそ8万8,000社以上あるとされ、毎年、各宗教法人が文化庁宗務課に信者数を届け出るが、その数では、神道系の信者数はほぼ9000万人であるという。
つまり、神社側の認識では、国民のほとんどは神道の信者ということになっているのである。
神道の中核をなすのが天皇である。
天皇家は、歴史的には神話という物語を駆使して天皇は神の子孫であるとし、その地位の神性や意義、正統性を徹底的に周知してきた。
明治時代には、新政府が天皇を中心とする新国家体制を整備するために、神道を保護して事実上の国教とし、天皇をこの世に人となって現れた神「現人神」として、一部の国家主義者により天皇が過剰に神格化されることになった。
第2次大戦後、GHQが天皇を神とすることを許さず、天皇に通称「人間宣言」を発布するように主導して昭和天皇が受け入れ、そのとき制定された日本国憲法で天皇は象徴であるとして現在に至る。
「天皇」は儒教思想でいうところの天皇大帝=北極星であり、この世の中心=神であり、その神の一族の子は「天子」であり、世界を統治するために神から遣わされた代理人である。
天皇がほんとうに神の子孫であるか否かはともかくとして、その背後で共産主義者が暗躍していたGHQが天皇に「人間宣言」を発布させたのは、神(天皇)を否定することが日本を共産主義化に必要だからである。
「天」から「命」を受けた「世界の中心」であることを自称して暴走する中国にとって、天皇および天皇家は、その存在が中国を否定するものであり、中国が世界を統治することを正当化するうえで目の上のたんこぶとなっている。
その中国共産党は、天皇の処刑を目標としているともいわれるが、日本でもウイグルのような監視社会「スーパーシティ構想」が実現に向けて法整備が勧められている。
AIやビッグデータなど最先端の技術を活用し、未来の暮らしを先行実現するというが、納税の状態や既往症、位置・移動情報や商品の購買歴といった、国や自治体、警察、病院、企業が、いまは別々にもっている個人情報が、スーパーシティではその垣根が壊され、一元化が進む可能性が高い。
大量の個人情報と顔認証、マイナンバーとの結びつきが強化されれば、住民に対する管理・監視にもつながるが、「安全に管理するから大丈夫」という政府のことばは、これまでの公文書の扱いを考えるとあまりにも信用するに足りない。
そればかりか、スーパーシティ構想は、天皇が中核にある神道の信者ということになっている日本国民を、ウイグル人同様共産主義者に都合のいいように「再教育」するための準備とさえ思える。
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9.中東の多神教世界の中の一柱の神にすぎなかったヤハウェ(2020年6月4日)
天命思想という「天(=神)」から「命」を受けた天の代理人たる天子がこの世を統治するという妄想的優越主義に立つ中華思想は、その源を儒教(=ユダヤ教)にもつ。
ユダヤ教は一神教で、ユダヤ教における唯一絶対の創造神をヤハウェという。
ユダヤ教から派生したキリスト教の神も同じくヤハウェであり、イスラム教の唯一神はアッラーというが、「アッラー」ももともとは「神」を意味する普通名詞であり、ユダヤ教・キリスト教の唯一神ヤハウェとおなじ神を意味していた。
ユダヤ教では、ヘブライ人(ユダヤ人)たちがモーセに率いられて、出エジプトを行い、「乳と密の流れる地」カナンに戻る途中、シナイ山で、ヤハウェから十戒(1.私の他に何者をも神としてはならない。2.自分のために刻んだ像を造ってはならない。3.汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない。4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。5.汝の父母を敬え。6.殺すなかれ。7.姦淫をしてはならない。8.盗むなかれ。9.隣人について偽証してはならない。10.隣人の家をむさぼってはならない。)を授けられた。
その最初の戒めにもあるとおり、ヤハウェは自分に従わない者を許さない。
しかし、「殺すなかれ」といっておきながら、たとえばカナンに侵入する際には異民族を滅ぼし尽くせといったり、あるいは自身以外の神バアルとその信仰者を根絶にしようとしたりしたように、「殺すなかれ」としているのは自身を神と崇める者のみであり、自身を神と崇めない者にたいしては戒めを守らなくてよいと考える。
自身に都合よく解釈する一貫性のないルールが神からの命だと考えればこそ、「天命を受けた世界の中心」という歪んだ優越意識が生まれるわけであるが、そのヤハウェは自身を「妬む神」ともいっている。
それは、ヤハウェは生まれながらの唯一神ではなく、中東の多神教世界の中の一柱の神にすぎなかったからである。
『旧約聖書』において、一神教が明確に見受けられるのはバビロン捕囚のころで、それ以前のヘブライ人(ユダヤ人)は、彼らが目指した土地の先住民カナン人と同じように多神教的な考えをもっていたとされている。
聖書では「神」の一般名詞は「エル」であるが、彼らが目指した古代カナンにおける宗教の内容を伝えるウガリット文書によれば、エルは造物主・王・神々と人類の父などと呼ばれる最高神であった。
女神アシェラとの聖婚によって、バアル・ヤム・モトといった神々を生み、子神バアルにすべてを任せて引退したというが、このことは、カナンの地にはヤハウェ信仰が登場する前にエルを主神とする多神教的宗教が存在していたことを示しているといえ、一神教のヤハウェ信仰は、カナンの多神教と一続きであると見なすことができる。
バビロンに捕囚された人びとは、その共通する苦難によってひとつの民族としてのまとまりを強烈に意識するようになり、やがてユダヤ教が成立し、ユダヤ人の国家が形成されることになる。
しかし、砂漠の寄留者ヘブライ人(ユダヤ人)は、放浪、奴隷、捕囚、差別などという苦難の中で、十戒を授けられたことを神との契約と考え、その神との契約を守ることによって救済されると固く信じる以外に、砂漠の中で生きのびる術をもたなかった。
つまり、彼らがいうところの「唯一神」は、彼らが信じた「一柱の神」を「解釈しなおした」ものであり、「天地創造の神」も同様である。
とりわけ民族を象徴する出エジプトの歴史的体験を忘れないために、モーセにまつわる伝承などを「聖典」として編纂し、それがのちに『旧約聖書』と呼ばれるようになった。
さかのぼって先史時代、神なる観念はといえば天空神だった。
しかし、狩猟採集から農耕社会の発展にともなって天空神の影はうすれ、かわって、太陽、雷雨、豊穣をつかさどる神々が表舞台にあらわれる。
しかも神々には序列があり、その神々は個々の都市国家の守護神でもあり、都市の盛衰は、それら神々の序列に反映することもあったという。
神々は序列に従って万神殿の共同体をなし、共同体ではそれぞれの神格にさまざまな役割が与えられ、自然が摩訶不思議な現象にあふれているのは、その神々の役割ゆえなのだという。
他部族との出会いで神々の吸収合併が進んだとはいえ、そのような多神教的宗教の中にあって、一柱の神が万物をつかさどると解釈し、天地まで想像した唯一絶対の存在だと主張したのがヤハウェ信仰である。
その神格はユダヤ教のみならず、キリスト教・イスラム教にも引き継がれている。
現代において、他人の土地に侵入し、異民族を根絶やしにすることを正当化するこの神格を体現している筆頭が中国共産党ではあるが、どう呼ばれているにせよ、この無理無体な天命思想によりこの世の混乱は引き起こされているのである。
■主な関連記事・書籍
本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ―』岩波書店、2005年
10.神との一体化で殺される魂(2020年6月16日)
中華思想に代表される優越思想は、偏見と差別、強制と不和をもたらす。
人は、だれ一人として同じ人はおらず、優劣などなく、だれもがかけがえなのないたった一人の存在であり、他者との違いは個性である。
もって生まれた個性をふかく探り、つよく引きだそうと追究しつづけることが人生であるが、しかし、それを許さないのが、優越思想の持ち主および優越思想によって成り立っている組織である。
彼らは多様性や複雑性、個性や才能を認めない。
口では個性が大事だ、才能を伸ばせといいながら、その実、それらを排除するふるまいをする。
その自己矛盾や、その自己矛盾によって他者を傷つけ、他人の心を破壊しているという認識をもたないまま、さも自身が善良な目的をもっているかのように、または親や指導者という誰も否定できない社会的立場を盾に、平気で弱者を傷つける。
政治や社会のあるべき姿についての理念の体系を、イデオロギーと呼ぶ。
イデオロギーは、しばしば人を魅了し、イデオロギーに帰依した人間は純粋でかたくなな行動をとることから、イデオロギーは宗教にたとえられる。
イデオロギーに縛られた人は、そのイデオロギーの失敗や欠陥を認めない傾向があり、その点でイデオロギーは虚偽意識(真実を覆い隠す偽装工作)をもちがちである。
イデオロギーに縛られて、真実を覆い隠された者は、目の前で起きていることよりも、自分の頭の中にあるイデオロギーを現実と見なす。
現実よりも理想が優先されるので、口では弱者の味方を装っていても、子どもや弱者が歓んだり、自己評価を上げたり、愛情豊かな人間に育ったりして、最終的に自分以上にすばらしい人間になることを阻害する。
彼らの目的は、弱者の救済ではなく自身の支配権の拡大であり、その目的を果たすためだけに、自身に疑いを抱きようもない子どもや弱者の心を、言葉や態度で、恐怖心や罪悪感をつかって操作する。
イデオロギーに縛られた者は、その操作を「教育」「指導」「愛」と呼んで正しいことをしていると思い込んでいるのであるが、その巧妙かつ破壊的な方法をとることができるのは、かつて、自身が自身の親や指導者に、そのような仮面の「教育」「指導」「愛」という名の暴力を受けて育てられた経験がある人だけである。
仮面の「教育」「指導」「愛」という名の暴力を受けて育った人は、そのつらい現実から目をそらすために、現実への認知を歪め、自分を騙すようになる。
中華思想の持ち主は、究極的には自身を「天命を受けた世界の中心」と詐称し、そう認識しない他者を一方的に蔑視し、罰するようになるが、彼らにとって重要なのは、ほんとうに自身が天命を受けた世界の中心者であるという現実ではなく、それを他者が認めるというイデオロギーである。
なぜなら、自身を「神に等しい者」ということにすれば、自身を否定する者は神を否定する者として断罪することができる。
自己の矛盾や暴力、親から愛されなかったことや、その後親のように信頼した大人からも見捨てられた現実を直視せずに済む。
つまり「天命を受けた世界の中心」を自称することは、現実の認知を著しく歪めることによる究極的な自己欺瞞なのだ。
それゆえ、それを自称する者にとって、その「天」がほんとうに神であるか、あるいはほんとうに善良な神であるか、または、そのことにより社会が具体的にどうよく変わったか、は、まったく重要ではない。
重要なのはイデオロギーであり、自分は暴力など受けていない、愛されていると思い込みつづけられることであり、自身が神に等しい者であると錯覚する者が多ければ多いほど大きく成り立っていくように思える仮想現実世界なのである。
さて、「アイデンティティ」とは、一般的には「同一性」などと訳される。
心理学や社会学においては「自分は何者なのか」という概念であるが、日本語にぴったりあてはまることばはない。
その語源は、古典ラテン語の「idem」(「同一人」「同様のもの」)にあり、「所属性」や「時間的経過を経ても変わらないもの」というような抽象的な用語である。
かつ、西欧哲学の系譜で扱われてきた概念であり、「神との一体化」などという表現などでも使われてきたが、「自分とは何者なのか」という概念が広がって以来、精神分析学上の用語として、分裂症の研究等に欠かせない言葉となったものである。
自身を神に等しい者と自称することは、ユダヤ教やキリスト教という一神教の神との一体化を理想としていることが伺え、中華思想の源は儒教=ユダヤ教と考えられるが、歴史的に一神教の文化をもつ西洋とは違う背景をもつ日本で、その概念を認識することは難しい。
そのほとんどの日本人がはっきりともつことのできない概念を、世界を変えるためには必要な認識だと説く指導者がいるとして、十分に説明をしないままイデオロギーで他人を縛り、思うように従わなかったら集団の前で吊るしあげ、プライバシーの侵害と名誉の棄損をくり返した挙句、世界が変わらない理由はその概念の認識が不十分なお前たちのせいだといって責任を取らずに逃げるなら、その人は常軌を逸している。
そういう大人たちの常軌を逸した行動について、アリス・ミラーは、『魂の殺人』で、「どのように常軌を逸した行動にも、幼児期からのいきさつがある」といっている。
「早期の条件づけによって人が自分に起こったことを気づかなくなるようにするための技術のすべてが網羅され」た、カタリーナ・ルーチュキュイの教育に関する論文である『闇教育』から引用し、「教育者」が、「自分の欲求を満足させるために」意識的に子どもを傷つけ、踏みにじるいくつもの事例を紹介している。
それによって子どもは自意識が破壊され、不安になり、障害を受けることになるが、にもかかわらずそれが善行として称揚されることは、現代においても往々にして起きている。
アリス・ミラーはいう。
「常軌を逸した行動が集団で行われるようになる時、それは最も危険なものになります。その時には誰も自分たちのやっていることがおかしいとは気づかず、むしろそれが「正常」ということになってしまうのですから」と。
かつてのドイツ、戦後期の子どもたちにとって、「両親に、第三帝国の現実に関するあれこれを問い糾すことが怪しからぬことであるか、少なくともあまりよくないことだというのは言わずもがなのこと」だった。
宗教的のみならず、「伝統的な道徳上の諸価値」を子どもに植えつけるために、大人はしばしば、嘘、虚構、虐待、暴行、侮辱、拷問を含めた暴力を活用し、そのために子どもの自我が発達する以前から子どもがしたいことを我慢させる。
親が許しているなにかを子どもが求めたときにだけ、心から応えるなどして子どもに「自己否定」を学ばせ、子どもの中の「神のよみし給わ」ないものはすべてできる限り速やかに抹殺する。
そのうえで、「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」という聖書のことばなどを盾に、「この上から来る愛によって単なる自然のままの両親の愛情は潔められ、聖別され、洗われ、強められる」として子どもを罪人扱いする。
たとえば悪さをした子どもに、父親が「正直にすれば、お前は、私たちの優しい父であられる天の神さまにも、そしてすべての人間に対しても、恥ずかしくない人間になれるのだよ」などといって、悪さの自白を引き出せば、子どもは恐れと恥ずかしさ、不安と無力感に突き落とされる。
そのような子どもは、「幼い罪人」となって「教育者」の思惑通りに生きることになるが、それと同じ原理が、じっさいには全世界を支配している。
「天命を受けた世界の中心」を自称する者に限らず、他人を傷つけることを正当化するだれかにたいして、疑問さえを抱いていないかのように素直に従い、その現実に関するあれこれを問い糾すことを避け、それがまったく正常で当たり前のことであるかのようにふるまえる人びとは、戦後期のドイツの子どもたちのような状態である。
強い者が善悪の判断を牛耳り、戦いの勝者は遅かれ早かれ正しいことになり、その勝利のためにいかなる犯罪的手段を弄していたとしてもそれは不問に付される「闇教育」。
この「闇教育」の思惑通りに育った人物の筆頭が、ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーであり、ナチス・ドイツが計画したるユダヤ人にたいして組織的に大量虐殺を行う「ユダヤ人問題の最終的解決」に関与したアドルフ・アイヒマンであり、ルドルフ・ヘスである。
ヒトラーの世代の子どもたちは、当時、家庭でも学校でも激しい暴力に晒されていたというが、第三帝国の指導者たちは一人の例外なく、「厳しく」「しっかりしたしつけ」と「教育」を受けており、また、1980年代ころのドイツ人のテロリストは、その60%が牧師の家庭の生まれだったという。
両親が子どものためを思って「善良で」「物わかりがよく」「利口で」「おとなしく」「物静かで」「思いやりがあり」「利己的でなく」「我慢強く」「素直で」「わがままでなく」「頑固でなく」「反抗的でなく」「そして何よりも敬虔」であってほしいと願って、一番よいようにと考えて行動した結果が、歴史的な悲劇をもたらしたのである。
テロリストたちは、なんの罪もない婦人や子どもを人質に取って、それを偉大な目的のためにはやむを得ない措置だと称することがある。
しかしそれは、反復脅迫に陥った状態であり、つまり、無意識のうちに、かつて自身が大人たちからどんな目に遭わされたかを語っているのだ。
テロを正当化する彼らは、偉大な教育の完成のため、あるいは崇高な宗教的徳目のため、という高らかな理想のもと、生き生きとした小さな子どもを犠牲に供し、しかもそれを立派な正しいことをしているのだと信じる大人たちに、一度も自分の感情を信頼することを許されなかった子どもたちである。
自己の感情を自らイデオロギーのために抑圧する道を選ぶことになった子どもが、大人になったいま、昔とはべつの(多くは反対の)イデオロギーに身を捧げ、最も深い心の内奥まで、子ども時代と同じく完全に捨てて省みることなく、そのイデオロギーの目的を遂行しようとしているのである。
嫌だとかつらいとか、具体的な心理上の事実を無視して、宗教や哲学的倫理などつくり上げた抽象的価値体系を優先させ、それにしがみつかせているのであれば、その人が行っていることは立派な「闇教育」であり、彼らのしていることは、過去に受けた暴力の再現なのである。
「天命を受けた世界の中心」が「闇教育」を施すなら、彼らが行っていることは、神からの権威をうけた命がけの「魂の殺人」である。
しかし、この「闇教育」は、現代日本を生きるわたしたちは少なからず、というより、ほとんどが通過していると思われる。
そのことに気づかせず、罪悪感や自己否定をもったまま、一度限りの人生を謳歌させないことが、「闇教育」を行う「大人」の思うつぼなのであり、「闇教育」を行う「大人」とは、両親だけとは限らない。
以下、『魂の殺人』に書かれている「闇教育」の諸相を参考に、「大人」の部分に、いまあなたが頼り切っている人を当てはめて読み直し、その人がそうふるまっているのなら、その見えない呪縛をかける人からは一目散に逃げ去り、きっぱりと縁を切ってやり直し、どうか一度限りの人生を、生き生きと生きられることを願います。
■「闇教育」の諸相
1.大人は、自分が面倒を見てやっている子どもの支配者(であって召使いではない!)である。
2.大人は何が正しく何が不正であるかを神のごとく決める。
3.大人の怒りは本来大人自身の内の葛藤から生まれるものである。
4.しかも大人はその怒りを子どものせいにする。
5.両親は常に庇われ保護されなければならない
6.子どもに生き生きとした感情が息づいていては支配者に都合が悪い。
7.できるかぎり早く、「子どもの意志を奪ってしまう」ことが必要である。
8.すべてはとにかく幼い時期に行われねばならない。そうすれば子どもは「何一つ気づかず」大人を裏切ることもできないから。
■主な関連記事・書籍
アリスミラー著・山下公子訳『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』新曜社、1983年
東大教授と語る・小池知事【カイロ大学首席卒業問題】を子供時代の虐待と暴力の観点で考える。安冨歩教授電話出演。一月万冊清水有高
11.中華思想というハラスメント(2020年7月9日)
中華が世界の中心であり、天から命を受けた天子がこの世を統治すると考え、中華と文化を共有しない者を蛮族と侮蔑して罰する中華思想は、その源に儒教がある。儒教は孔子が編纂したユダヤ教であると考えられる。
儒教の祖とされる孔子は、自身の王朝を創ろうと自身を聖人化した際、その根拠としたのが三王朝(夏・殷・周)の儀礼を極めたことだったが、孔子が尊重した「礼」とは、日本人が想像する「マナー」や「礼儀」にとどまるものではなく、たとえば冠婚葬祭のときにきちんとした式次第にのっとって行う儀式や、王や国王が客人を迎えて行う儀式のことであった。
とりわけ、「子の曰わく、予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐を免る。夫れ三年の喪は天下の通喪なり。予や、其の父母に三年の愛あらんか。」と、親が死んだ際には、3年の喪に服するというのが礼のきまりとした。
3年の服喪は、農民がそれをするなら畑が荒れ、生業が成り立たず、生きていくことができなくなるが、それでも孔子は「気持ちがあるなら当然のことだ」と、現実を生きることよりも親を敬うことを強調した。
多くの宗教は、最高位の神に父性をもたせている。
古代イスラエルの民が多くの艱難苦難を通過するなかで、神々の中から唯一の創造主と解釈した一柱の神ヤハウェもまたユダヤ教では「父」と称され、ユダヤ教からヤハウェ信仰を引き継いだキリスト教のもっとも代表的な祈祷文「主の祈り」は、「天にましますわれらの父よ」で始まる。
天命思想では、天子は天帝から自身の王朝を建ててよいという命(天命)を受けて王朝を開くが、天子は文字どおり天の子であり、この世を統治する王が天の子であるなら、その親は天であり、親であるからには子としてはよく仕えなければならない。
中国において「天に仕える」とは、祖先をよく祭るように天をよく祭るということであり、天の神に対する王による奉仕が「徳」である。
徳、すなわち、天の神に対する王による奉仕とは、決められた期日にきまりどおりの飲みものや食べ物を捧げて祭るという儀式のことであり、それは旧約聖書で重要視していることでもあるが、つまり中国における徳治主義とは、道徳心やモラルがある人による統治ではなく、よく天を祭る人がこの世を統治するという意味である。
また、中国では、大地の上を天が覆っている、すなわち、「天は覆うもの」「大地は載せるもの」であり、降った雨が水蒸気となって天に昇ることから、天地のあいだには絶えず交流があるという考え方があった。
さらに、人と人のあいだにも天と地のような交流があると考え、人間のあいだのふたつの相対するものである男女もまた、天地のように交流して通じ合うものだと考えた。
しかし、天地の関係においては、天は尊く地は卑い。
男が尊く女が卑しいという考え方はここから生まれ、男尊女卑の思想は想像以上に根ぶかいものがあるが、「どんな親であれ親であるというだけで親を崇めよ」という無言の理不尽な命令は、男尊女卑とおなじく、天と父親(男)を同一視することからもたらされる弊害である。
その無言の命令が、場所を教会というところに移すと、神そのものではなく指導者にすり替わっていることが往々にしてあるが、それを神の教えと称する指導者の、「指導者が指導者であるというだけで指導者を崇めよ」という無言の理不尽な命令をくみ取って育った者が、自身が育てられたように自身より弱い立場の者を育てることは、愛の仮面をかぶった暴力、つまりハラスメントである。
信じた人に裏切られたと認めることは、とてもかなしく、みすぼらしい気持ちにさせることではあるが、愛を騙る暴力という負の連鎖を断ち切りたいと願うなら、騙されたという現実を認めることをせずに、これからを幸せに生きることはとても難しい。
幸せに生きたいと願うなら、いままさにあなたの人生に介入する愛を騙る暴力をふるう人を、あなたの人生から排除する必要があるが、もし、いまあなたが信頼している人に以下のような特徴がみられるなら、あなたが信じているのは残念ながら、どれだけ言葉を並べようと、愛ではなく暴力と考えてよい。
・意味不明なことを自信を持ってやってみせる。
・意味不明なことを自信を持って言う。
・勢いよくまくしたてる。
・理不尽に怒ってみせる。
・困ってみせる。
・自分を憐れむ。
・レッテル貼りをする。
・もっともらしく理念を語る。
・自分の関わっていることだけが唯一の良いことだと主張する。(『ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛』p.194-195)
経験した人ならわかるだろう、会社の社長や上司、ビジネス講座や宗教的指導者など、だれかになにかを教え育てるという立場の人間がこの特徴をもっている場合、十中八九、その人は自分の利益のことしか頭になく、サイコパスでないにしても、はじめから食い物にするために他人を集めている場合さえある。
だれかからなにかをだまし取った人は、その自覚の有無にかかわらず、いずれ必ずその報いを受けて苦しむが、しかし、同書でもいわれているとおり、ハラスメントの被害者がその呪縛から解放されようとして、ハラスメントをする側になっては本末転倒である。
大事なのは復讐をすることではなく、本来ある幸せを存分に感じ、助けたり助けられたり、愛したり愛されたりしながら、大切な人と共に生き生きと生きることであり、それをするためには、これからの人生に、暴力をふるったり、自分の大事なことを決める権利を奪ったりする人を介入させない必要がある。
愛を騙った暴力にすがり、誠実を騙った欺瞞をまとって生きてきた人が真実に気づくことは、暴力を連ならせていた鎖の環にひびを入れるようなもので、ひびが大きくなれば、やがてその環は割れて壊れ、鎖は鎖の役目を果たさなくなる。
暴力をふるうことでしか人と関われず、立場を守れなないできた人が、暴力に動じない人を目の前にするとき、その人は、自分がただの「役立たず」であることを知るのである。
■主な関連記事・書籍
『ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛』と、痛みに忍耐することと引き換えの天国という地獄
蜂屋邦夫著『中国思想とは何だろうか』河出書房新社、2006年
12. 中華思想+共産主義=強盗主義。他人を自分が英雄になるためのモブキャラのように扱うあの人は(2021年4月25日)
この世には神を信じる人と信じない人がいる。
前者は有神論者、後者は無神論者と呼ばれる。
この世には神も霊も存在せず、物質しか存在しないという唯物史観を唱えたのが共産主義の祖マルクスで、彼は、神や霊魂、永遠の命などは幻想であり、それらが存在すると信じる精神は、その精神をつくりだしている物質の支配によるものだと考えた。
そうしてマルクスは、物質によってつくりだされた環境によって人間の精神は支配されているが、それは個人単位のみならず社会単位でも起きている支配であり、社会の物質を支配できる金持ちが人間を支配しており、その物質環境による矛盾がやがて暴力を伴う革命を起こし、暴力革命によって社会は変化していくと考えた。
経済という人間社会における物質環境では、そこでやり取りされる物質の価値の根拠を労働にあるとし、それゆえ、労働者を酷使すればするほど使用者となる資本家は金持ちになり、資本家のあいだでもより労働者を酷使した資本家だけが巨大になって生き残る。
そうして社会は、大勢の酷使される労働者とごく少数の大金持ちとに二極化し、その不幸な社会を変化させられる唯一の手段が暴力革命であると考えた。
暴力革命後には、皆平等で幸福なあたらしい社会がもたらされる、と考えるのが共産主義で、マルクス以降、世界中にいくつかの共産主義国は建ったがそのほとんどが廃れた。
ほとんどの共産国が廃れた現代において、なお共産主義を宣言しているのが中国で、中国共産党が仕掛ける革命に用いられる暴力には病原菌が使われるようになった。
共産主義を宣言している中国共産党は、マルクスが予測したような「皆平等で幸福な」社会をもたらしているか。
けっしてそうでないことは、習近平が掲げた「脱貧困」政策からもよくわかる。
2012年、中国共産党のトップに就任した習近平は、共産党大会で2020年のGDPを2010年の2倍に増やすという数値目標を示した。
同時に一人当たりの年間収入が2300元(2019年末時点の物価換算で約4万8270円)未満の絶対貧困人口をゼロ化する「脱貧困」の目標も掲げていたが、2020年、首相の李克強が「平均月収が1000元(1万5000円)前後の中低所得層も6億人いる」と発言したことで、習近平が掲げた「脱貧困」はまるで成されていないことが暴露された。
全人口14億人のうち、月1000元という中国の中規模都市では部屋を借りることさえできない月収で貧困にあえぐ人口が6億人もいる一方で、2020年5月の中国人民銀行が公表したリポートによれば、都市部住民の家計総資産は一世帯平均317.9万元(約4770万円)、北京では892.8万元(1億3392万円)、上海では806.7万元(約1億2100万円)と、貧困層と富裕層の所得格差は約5千倍から1万倍にもなっている。
現代の中国は、「皆平等で幸福な社会」どころか、むしろマルクスが予測し、暴力革命によって変化させるべしとした、大勢の酷使される労働者とごく少数の大金持ちとが二極化している状態となっている。
その現実に臭いものにふたをするかのように、2021年、習近平は、自身が掲げた「脱貧困」の目標について中国は極貧を根絶するという「奇跡」を達成したと、貧困の基準を変えるという不正を「奇跡」と呼んで「歴史的な課題を解決した」と自画自賛した。
しかも所得格差の二極化の一極を担っているごく少数の大金持ちは、共産主義を宣言する共産党員とその関係者というのだから、中国共産党が共産主義と謳いながらとっている態度は、共産主義と資本主義の都合のいいところだけを混ぜ合わせ労働者を酷使する資本家の搾取を正当化する中国式資本主義であり、その実態はほとんど、賊、追剥ぎ、強盗主義といえる。
その中国で2011年、高速鉄道の脱線事故が起きた際、乗客の救出は短時間で打ち切られ、車体は地中に掘った穴に埋められたが、政府発表の死者数35人は、乗客数と負傷者数から逆算しても数が合わなかった。
救出が打ち切られた数時間後に生存者が救出されても、政府発表の死者の数は、事故があった場合市の共産党委員会の書記が更迭されないぎりぎりの数であるという35人から頑として増えなかった。
そのうえ乗客の救出打ち切り後に乗客を救出した救助隊員は命を救ったと称賛されるのではなく、政府の救出打ち切りの命令に違反したと非難されるあり様で、中国共産党がいかに人命を軽視し、人の命よりも党のメンツに価値をおいているかがよくわかる。
あるいは、中国では2018年に刑法が改正され、「中華人民共和国の英雄殉教者保護法」なる法律ができたが、2020年に中国とインドの国境地帯で発生し複数の死者を出した両国軍の衝突について、中国政府が発表した死者数に疑問を呈したブロガーが「戦死者を嘲笑」したとして罪に問われ起訴された。
でも、ふつうに考えるなら、政府発表の死者数に疑問を呈することは、すなわち戦死者を嘲笑することにはならない。
百歩譲って嘲笑の意味が込められているとしても、その場合、嘲笑の対象は政府であって戦死者ではない。
この、単なる事実の提示や可能性の追求を攻撃と捉え、思い通りにならない相手を自分が定めたルールや法にこじつけて攻撃するのはいかにも中国共産党的だが、それをするのは中国共産党員に限らない。
たとえばかつて出会った人で、約束も契約もしていない善意の作業にたいして、その人が期待した納期に数時間遅れたというだけで怒り狂って罵倒してきた人がいた。
電話に出ると開口一番苛立ちをぶつけ、遅れた理由を説明しても納得せず、わたしを使い物にならないと言っただけでなく最初から悪意があったと決めつけ、さらには「そこにもう一人仲間がいるんだろう」「私にはわかってんだよ」「そこで一緒にこの電話を聞いているんだろう」などと存在しないもう一人が見えていると誇大妄想を振りかざして偉ぶった挙句、「あんたもどうせ私の悪口を書くんだろう!」と、理解不能な叫び声を投げつけて去っていった。
人の善意を過大に求め、それが得られなかったら被害者のように振舞うのは中国共産党の特徴的な性質だが、正当な報酬や契約もなく、無報酬にせよ感謝やねぎらいの言葉もなく他人を酷使して他人の能力を搾取することを当然と考え、それが叶わないとわかると恫喝し、攻撃し、恐怖で支配しようとするあの傲慢さとあの浅はかさは、その後知った中国共産党の「英雄侮辱罪」の用い方と酷似していた。
つまり「英雄殉教者保護法」で保護されるのは戦死者や過去の英雄ではなく、中国共産党のメンツで、要は「英雄殉教者保護法」とは、「共産党トップである習近平のメンツ保護法」にすぎない。
ひとりの人間のメンツのための法律まで作ってしまうなど、とてもほんとうとは思えないが、とてもほんとうとは思えない人がほんとうにいることを一度でも経験すると、中国共産党政権下では、もっと大変なとてもほんとうとは思えないことがほんとうに起きているらしいことも受け止められるようになる。
中国共産党は、共産主義と資本主義を都合よく混ぜ合わせて党による強盗を正当化し、法律やルールをも共産党に都合よく変えて、その行使をもって中国が法治国家であるとうそぶいているが、強盗主義社会といえる「法治国家」を自称する中国は、無神論を謳いながら、天命思想というユダヤ教やキリスト教の親戚にも思える思想をもっている。
自分がなんらかの使命を担っていると考えることはすばらしいことで、そう考えると生きるエネルギーが湧いてくるし、実際そう感じるときはほんとうにそうなのだと思う。
だから、「私は使命を担っている」と考える人が、同時に「それゆえあなたは使命を担っていない」、あるいは「あなたの使命は私の使命より劣っている」などと、種類の違いを優劣と考えるのが差別的で、いかにも中華思想的で、そのだれかひとりに都合よく曲解することを模倣した団体が、理念や神の言葉など聞こえのいいことを盾に、集う人を都合のいい駒として扱う賊や追剥ぎや強盗のようなカルト団体になっていく。
そして、中国共産党的団体の人をモノのように扱って悪びれない、むしろそれが正義であるかのようなあの異様な振る舞いも、マルクス哲学を曲解しているようであり、マルクスは、人間の心や精神というのは、心や精神がそれだけで働いているのではなく、脳という高度に発達した物質からの電気信号による支配にすぎないと考えた。
人間を物質にすぎないと考え、それゆえ人間の心や精神も幻想であると考え、それが神の存在の否定の根拠とした。
この一見真実らしい哲学は、でも自身に富や権力が集中する仕組みのトップがこれを振りかざせば、それはそのトップが多くの人をモノとして扱うことを正当化する狂暴な理論にすり替わるのだ。
この狂暴な理論に、中国共産党お得意の有神論と無神論とを混ぜ合わせを行えばどうなるか。
「人間は神の言葉によってプログラミングされたスーパーコンピューターにすぎない」などといって、自身の独裁と搾取を正当化する自称神の代理人を登場させることになるのだろう。
マルクスももとは熱心なユダヤ教の家庭に生まれ神を信じていたが、キリスト教に改宗してからはキリスト教徒とユダヤ教徒双方から冷遇され、家に帰れば信仰を理由に両親の不和が絶えず、しだいに神への復讐心を募らせて無神論者になったという。
幼いころに愛してくれる人と居場所がなかったことで生まれたマルクスの思想は、当時酷使されて肩身の狭い思いをしていたであろう労働者と親和性があっただろうし、世間から認められず官位を得られなかった孔子のルサンチマンを基礎に置く儒教を重んじる国や、黒人や慰安婦への差別を理由に団結する団体とは、現代でも親和性があるのだろう。
つまるところ、本人の自覚の有無を問わず、中国共産党的な人の根源は、神を信じるか信じないかということの以前に、愛されたかったのに愛されなかったという寂しさや孤独、疎外感や劣等感なのだ。
三つ子の魂百までというくらいだから、子どものころに思うさま愛されるか否かというのは想像以上にその後の人生に大きな影響を与えていて、人を人としてではなくモノのように扱うのは、つまりその人が人からモノのように、モノでないならたとえばゲームの単なる通行人のような、ストーリー展開に一瞬必要となるが、キーワードを聞き出せばあとは機械的で決まりきった返答しかしない、人というより背景の一部のように扱われてきたからだ。
そういう人が他人を見下げることで自尊心を保ち、矛盾が露呈しても支離滅裂に強がれば強がるほど、口ではなんと言っていようと、いまだにだれからも愛されず、劣等感に苛まれた地獄を生きていることが伝わって、ほとんど憐憫の気持ちを禁じ得ない。
だからといって暴力は正当化されないし、犯した過ちの報いは当然受けるべきだ。
この、他人をモブキャラのように扱う人で思い浮かぶのが、秋篠宮家の長女眞子さまの婚約者とその母親で、最近発表した文書には、親子が切実にメンツを重んじていることが書かれていた。
婚約解消に伴い受けた数百万円を返そうとする意思を見せたという母親について、翻って「返してもらうつもりはなかった」という相手の言葉を根拠に返さないことを正当化し、録音した音声を盾に委縮させ、名誉棄損までちらつかせて、自分たちに都合の悪い事実が出てくるのを防ごうとしていた。
彼らが言質としている言葉の真意は、でも録音データの全部を聞けば前後の文脈から明らからになるはずで、相手は反論しているのだから、音声の全部を再度検証して潔白を証明することが彼らの名誉を守る一番の手段となるはずだ。
けれどそうなれば、不都合な真実も露見する。
つまり、いかに親子が相手の発言の真意を無視し、現実を自分たちにだけ都合よく捉えていたかだけでなく、文書公開が相手を下げることで自分たちを上げ、自分たちに都合よく事が進むための印象操作のためのプロパガンダだったことも露見する。
貶めたい相手を自分で仕掛けた罠に誘導してはめ、弱みを握ってコントロールしようとするのは中国共産党の典型的な工作手段だが、あの親子は、文書とあからさまに矛盾するもっとも避けたかったはずの手段を選ぶしかなくなって、結果、なにより守りたかったはずの自分たちの名誉を自らの手で貶めているように見える。
あるいは、あの親子と家族になろうとしている眞子さまの名誉を貶めることで、皇室全体の名誉を貶めているようにも。
正当性の根拠として強がっているものが、同時に自身たちの公開処刑の材料となるのは、けっして珍しいことではない。
たとえば、自身を英雄だと自画自賛して多くを従わせていた人が犯罪者として牢獄に入ったり、他人から金品を詐取してきた人が脱税で財産を差し押さえられたり、夫を捨ててべつな男を選んだ人がそのべつな男にも捨てられたり、夫を捨てるよう唆した男が妻を含む女たちの逆襲にあって一切合切を失ったりすることは、驚きはするが当然の道理だ。
音声データや個人情報、ごくプライヴェートなことなど他人に知られたくないものを盾に相手の言論を封じて支配するような人間は、結局のところ最後には、自身がもっとも選びたくなかった方法しか選べなくなって自分で自分を殺すしかなくなるのだろう。
中国共産党の終焉が時間の問題だとすると、中国共産党がもっとも選びたくなかった自殺とは、ではいったいどういうことがあり得るのだろう。
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