2020
04.25

『ドストエフスキーと共産主義』と、キリスト教を真似たニセモノの宗教の特色「人神」思想により「独裁者に従順な羊となる」ことを求める共産主義者

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世界を共産国化するためにソ連で創設されたコミンテルンは、世界各国の共産党をその支部とし、「敗戦革命」による共産主義運動を世界各国で広げている。

その最たる例が、中国を「天命を受けた世界の中心」と考える中華思想と天命思想により暴走する中国共産党であるが、世界を共産主義化する運動に関与しているのは、中国共産党やコミンテルンの支部である各国の共産党など、公然と共産党員を名乗っている人ばかりではない。

共産党員として知られている「公然の党員」のほかに、「非公然の党員」、共産党が示した特定の問題についての対応や解決策へのつよい共感から共産党のための活動をする非共産党員である「同伴者」、選挙での票や賄賂といった個人的な利益のために一時的に共産主義者たちと協力する「機会主義者」、明確な意思を持って共産党のために活動をする人々ではなく、ソ連やコミンテルンによって運営される政党やフロント組織が訴える普遍的な“正義”に対して“情緒的”な共感を抱き、無自覚に共産党に利用されている“愚か者”「デュープス」らの関与をもって、コミンテルンが解体したいまもなお、世界を共産主義化する運動は世界各国でくり広げられている。

 

その共産主義の出現と、共産主義の人間の魂に及ぼす危険性を「予告」したとされるのが、ロシアの小説家フョードル・ドストエフスキーである。

1917年にロシア革命によって史上初の社会主義国家ソ連が誕生するまで、ロシアはロマノフ王朝によるツァーリズムが継続していた。

ツァーリズムとは、農奴制を基礎とした絶対君主体制であり、ロマノフ王朝では膨大な官僚制をしき、ツァーリ(皇帝)が強力な権力をふるった。

ドストエフスキーが活動した19世紀ロシアにおける「文学」とは、たんなる言語表現による芸術作品にとどまらず、政治運動や宗教改革を含む「世直し」活動の一環でもあり、ドストエフスキーは自身の作品で皇帝権力や権力者たちの強権的姿勢を批判した。

しかし一方で、権力者に反対して「世直し」活動をする活動家たちを「無神論者」と批判した。

 

1880年に刊行された『カラマーゾフの兄弟』にある、

「幾百年と過ぎ去った後に人類は己の知恵と科学の口を借りて『犯罪もなければ、また従って罪業もない、ただ飢えたるものがあるばかりだ』と公言するのをお前は知らないのか。『食を与えたるのち善行を求めよ!』と書いた旗を押し立てて、人々はお前に向かって一揆を起こす。そうして、この旗がお前の寺を破壊するのだ」

ということばが、作品完成から37年後に起きたロシア革命と共産主義の出現を「予言」したとされている箇所であるが、それ以前の1866年に雑誌に連載されていた『罪と罰』では、自身を「選ばれた非凡人」と意識する主人公が「あたらしい価値ある世界をつくるためなら道徳に反してもいい」と考え、「正義のための殺人」を犯す姿を描いており、それはまさに、「天命を受けた世界の中心」を自称して反対者を蛮族とみなし、世界統治のための殺人をいとわない現代の中国共産党の姿そのものである。

その共産主義は「人神」思想であり、キリスト教を真似たニセモノの宗教の特色をもち、それゆえ「独裁者に従順な羊となる」ことを求めると、『ドストエフスキーと共産主義』ではいっている。

一方、共産主義者は「へりくだれる人々」(一般民衆)の最大幸福、つまり「最大多数の最大幸福」をいつも口にする。そしてこの大義名分によって、ソルジェニーツィンのように精神の自由を守ろうとする少数派を「傲慢な人々」つまり異端者とみなし、彼らを強制収容所に送り込む。共産主義者の頭の中にあるのは、「最大多数の最大幸福」という数学的計算だけである。この計算の中で個人の人格の尊重は消えうせる。それに神を否定した共産主義者では「神の宮」あるいは「神の似姿」として、人間一人ひとりに内在する個性に基づく尊厳性は認められない。また人間の「平等」の意味は神の前での「霊的平等」であることを理解しない。

こうして共産主義社会では、神から与えられた人間の神性と個々の人間の持つ尊厳性は否定される。そして人間の価値は物質として数学的なものへと還元される。人間のアトム化である。共産主義社会では、最大多数の物質的幸福のためなら邪魔になる少数派は殺してもよいという数学的計算と、そのために民衆を「従順な羊の群れ」に変えるべきだとの功利主義が働く。しかも、このように個々の人間の人格を否定し、殺人を合理化する共産主義の下での功利主義は“人類愛”のためという偽神の力によって支えられ、強められているのである。

ベルジャーエフは共産主義の特色について、「共産主義はその権力によって、人間のすべてを――肉体ばかりでなく霊魂までも要求する。それは人間精神の底まで支配することを求める。この点で、共産主義はキリスト教の要求を真似ている」といっている。共産主義はニセの宗教としての特色をもったトータルなイデオロギーであるという意味だ。共産主義者が世界革命の実現になぜかくも献身的なのかのナゾを解くカギもここにある。またソ連のように共産主義国家がなぜ「収容所列島」になるのかの理由も、その思想が反対者を許さぬトータル・イデオロギーであることからくる。

共産主義社会は唯物主義の社会であり、神は存在しない。そこで人間が神となり、大多数の人民の物質的幸福のために人間をモノとして扱った数学的計算によって、隅々まで社会を合理化しようとする。パスカルは「神なしに人間は人間にとっての怪物」といった。神に代わった人間、すなわち人神は独裁者となり、人民を「従順な羊の群れ」にしようとする。そして最大多数の最大幸福という大義名分をふりかざすことにより、大量虐殺を含めて一切の非倫理的なことを行う。独裁者は自分が神である以上、超人であり、善悪の彼岸に立つことができるからである。ここに、共産主義者の残虐性――なぜポル・ポト政権が八百万人の同胞のうち三百五十万人を虐殺できたのかのナゾを解くカギがある。

そして共産主義者たちは人神の権威を守るために、彼らにとって邪魔となるキリスト教を、民衆を扇動して烙き殺させようとするのである。

結局、共産主義の行くところは霊肉の死である。神の祝福である自由を放棄させられることで、人間は人間たることをやめ霊的に死ぬ。そして肉の面でも死ぬ。(p.48-50)

 

 

中国ではキリスト教を含むあらゆる宗教が、中国共産党に活動の認可を得ていなければ活動を許されず、聖書には孔子や習近平のことばが書き加えられているという。

つまり中国におけるキリスト教は、「キリスト」や「神」といことばを用いた世界を共産主義化するための浸透工作の一環であり、その特徴のひとつが「人神」であり、習近平はその神になろうとしている。

キリストや神ということばを用いはしても、その実、共産主義者はキリストも神も否定しているため、キリスト教で尊重する個々の人間の人格や自由意志を、ことばでは尊重するといいながら、その実、否定する。

つまりキリストや神がいうところの“善悪”の判断は、神ではなく神に等しいと自称する“統治者”に委ねられ、共産主義者による革命に役立つものが「善」、革命を妨げるものが「悪」であると”統治者が”定める。

 

共産主義者のもっともわかりやすい特徴は、独善的に人を見下し、上から裁きを下そうとする倨傲(驕り、高ぶり)の精神であり、「おれが、おれが」というエゴイズムである。

共産主義思想の下では、共産主義者が自国の大衆や全世界の人間をアリ塚のアリのように服従させて組織化し、そうして大衆の精神の自由を滅ぼす。

少数の人間が自ら神になって人間の幸福をもたらすという「人神」たらしめるため、その組織は専制政治にならざるを得ない。

すなわち、キリストや神ということばを用いながら統治者を神に等しく崇めさせ、大衆に精神の自由を許さず反対意見を排除する専制統治がなされている組織は、その規模の大小を問わず、共産主義思想にもとづいているといえ、その統治者が公然の党員でないなら、「非公然の党員」か、「同伴者」、および「機会主義者」が、“だまされやすい愚か者”「デュープス」に浸透工作をしかけているのである。

その統治者が「天命を受けた世界の中心」を自称しつづけ、他人の人格と尊厳を認めず、「地上天国」のために正義をふりかざして攻撃している場合、それは現在進行形で共産主義、とりわけ中国共産党の影響下にあることを示している。

統治者が「公然の党員」、「非公然の党員」、「同伴者」、「機会主義者」のどれでもないなら、当人の自称はいかにも自称であり、すなわち “騙されやすい愚か者”にほかならない。

 

■参考図書

井上茂信『ドストエフスキーと共産主義』善本社、1988年

『カラマーゾフの兄弟〈第2巻〉』岩波文庫、1957年

ドストエフスキー著、江川卓訳『罪と罰〈上〉』岩波文庫、1999年

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