11.21
「時間泥棒」とペトロダラー 6 ― 植民地という「千年王国」と変質する「明白な天命」―
「時間泥棒」とペトロダラー 1 - SWIFTの原型をつくったイタリア商人 -
「時間泥棒」とペトロダラー 2 -「神の代理人」が意味するもの -
「時間泥棒」とペトロダラー 3 -「神の銀行」か「バチカン株式会社」か -
「時間泥棒」とペトロダラー 4 - バチカンの秘密諜報機関と「汚い戦争」 -
「時間泥棒」とペトロダラー 5 - 収奪を合法化して支配するアングロ・サクソン -の続きです。
今日、「アメリカ合衆国」と呼ばれている国の起源は17世紀に遡る。
1614年、ロンドンの商人数人が渡来した際、そのときの船長ジョン・スミスがーン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州,ロードアイランド州コネティカット州の6州を「ニューイングランド」と名づけた。
1620年、ピルグリム・ファーザーズが上陸したマサチューセッツ州ケープコッド湾のプリマスに移住して植民地を建設し、それを契機にイギリス人、フランス人、ドイツ人などが移住した。
1776年、東部13州がイギリスの植民地からの独立宣言をしてアメリカ合衆国が誕生し、そして、アメリカの社会学者エドワード・ディグビー・バルツェルによれば、アングロ・サクソンの観点に立てば、アメリカ文化の頂点はニューイングランドの「品のよい伝統(ジェンティール・トラディション)」と「プロテスタント信仰貴族」の支配エリートによってきわめられた。
アメリカの原点メイフラワー誓約
アメリカの自主・独立の精神の淵源は、メイフラワー誓約にあるとされる。
メイフラワー誓約は、ピルグリム・ファーザーズが1620年11月11日、ケープコッド湾に上陸しようとする直前に船室で作成した契約書である。
自由かつ独立の個人が「契約」によって社会団体を結成するという、近代的な社会契約思想の源流ともいうべき文書に、ピルグリム・ファーザーズの41人が署名した。
We whose names are underwritten, the loyal subjects of our dread Sovereign Lord King James, by the Grace of God of Great Britain, France and Ireland, King, Defender of the Faith, etc.
Having undertaken, for the Glory of God and advancement of the Christian Faith and Honour of our King and Country, a Voyage to plant the First Colony in the Northern Parts of Virginia, do by these presents solemnly and mutually in the presence of God and one of another, Covenant and Combine ourselves together into a Civil Body Politic, for our better ordering and preservation and furtherance of the ends aforesaid; and by virtue hereof to enact, constitute and frame such just and equal Laws, Ordinances, Acts, Constitutions and Offices, from time to time, as shall be thought most meet and convenient for the general good of the Colony, unto which we promise all due submission and obedience.
In witness whereof we have hereunder subscribed our names at Cape Cod, the 11th of November, in the year of the reign of our Sovereign Lord King James, of England, France and Ireland the eighteenth, and of Scotland the fifty-fourth. Anno Domini 1620.
「神の御名において、アーメン。われらが主権者たる畏れ多き国王、神の恩寵によりイングランド、フランスおよびアイルランドの国王にして、信仰の擁護者、その他諸々の擁護者たるジェームズ国王。その忠臣たるわれら、ここに署名したわれらは、
神の栄光のため、キリスト教の信仰の促進のため、ならびにわが国王と祖国の名誉のために、ヴァージニア北部に最初の植民地を建設する航海に出かけたものであり、本証書によって、神とわれら自らの前で厳粛かつ相互に誓約し、われらのより良い秩序の保全、ならびに前述の目的を達成するために結束し、市民による政体を形成する。そして、これに基づき、随時、植民地全体の福利のために最も適切と思われる、公正で平等な法律、命令、法令を発し、憲法を制定し、公職を組織する。そしてこれらに対し、われらは当然かつ全き服従と従順を約束する。
この証としてわれらは、われらが君主、ジェームズ国王のイングランド、フランスおよびアイルランド王としての治世18年目であり、スコットランド王としての統治第54年目にあたる、西暦1620年11月11日に、ケープコッドにおいて、本証書に署名する」1620年
この契約は教会契約ではなく政治契約であった。
だから神との契約ではなく人間との契約であり、権力創出の契約であった。
権力とは集団の意思決定であり、その決定を集団構成員が守るようにした。守らない者は強制力を使って罰する仕組みを作りだした、それがメイフラワー誓約であった。
彼らはその権力の正統性を本土の国王の権威に求めず、彼ら自身のあいだでの同意や約束、契約に求めた。
41人の署名者が権力の主体であり客体となることを約束したのであり、自治や自制、自分たちによる政治統治が、素朴ながらも現実に誕生した。
それゆえメイフラワー契約は、アメリカ連邦制の基礎のひとつとなっている文書となっている。
ピルグリム・ファーザーズ102人のうち、41人はピューリタンだったが、しかしそれ以外の61人はピューリタンではなかった。
残りの61人は、投機家が募集した植民地建設に長けた人びとや船乗り、奉公人、雇人であり、宗教的にはほとんどすべてが、イギリス国教会を支持する人たちであった。
アメリカ版ピューリタン革命・西漸運動
ピルグリム・ファーザーズによる新大陸でのイギリス植民地建設は、同時にアメリカの西部開拓の開始でもあった。
西部開拓の“西部”は、ある特定の地域を表す概念ではなく、ニューイングランド人定着地域の外縁部とその西方に広がる未開拓地をあわせて漠然とそう呼んだものであり、西漸運動とともに“西部“自体も西へ西へと移動した。
15世紀から17世紀、新航路の発見によって海を伝ってヨーロッパが世界に拡張したように、ニューイングランドは西の辺境フロンティアに拡張していたった。
彼らは、メイフラワー誓約で同意によって権力を創出させ、自治や自制や政治統制の基礎を作ったのだし、建設されたプリマス植民地では、だからよそ者やヨーロッパからの移住者を原則排除しなかった。
しかし先住民であるインディアンは排除し、彼らはその土地を獲得した。
入植直後は手探りで穏便にインディアンとの共存を図っていたニューイングランド人も、入植者の増加に伴って入植地の拡大も必要とされた。
やがてインディアンの部族間の争いを利用して、代理戦争を行わせて土地を収奪するようになった。
インディアンは、土地を所有することを知らなかった。
彼らにとっての土地は、空気や水と同じように、部族のすべての人の物であった。
契約という概念を知らず、文字も知らないインディアンにニューイングランド人は、契約書に×印をサインの代わりに書かせて土地を奪っていった。
合衆国が誕生すると、合衆国憲法の第1条第2節3項では「アメリカインディアンは課税対象とせず、アメリカの公式人口統計には含めない」とした。
1830年、ジャクソン大統領はインディアン強制移住法を制定し、インディアンをシシッピー川以西の辺境地帯の保留地に移住させた。
1871年、アメリカ議会は「独立国家として、アメリカ合衆国と条約を締結するインディアンの国はもう存在しない」と宣言した。
1924年のインディアン市民法で、「インディアンをアメリカ国民とみなして課税対象とする」としたが、合衆国憲法の修正は行われなかった。
ピューリタンを保護したジェントリ
新大陸へ移住したニューイングランド人のインディアンへの対応が、彼らが逃れてきたイギリス本土でジェントリが農民から農地を収奪し、法律を作って所有者を自分たちに変えたうえで排他的に利用したピューリタン革命による土地囲い込みと同じ構造であった。
それは、ピルグリム・ファーザーズ102人のうちのメイフラワー契約に署名した41人のピューリタンとは、まさにジェントリであったからだ。
16世紀の宗教改革以降、有力ジェントリの多くが、ピューリタン聖職者をパトロンとなって保護していった。
当時、オックスフォード大学やケンブリッジ大学で聖職者の資格を得ながらも、実際に聖職禄にあずかれない者が多数いた。
政治的、宗教的にピューリタニズムに関心をもつジェントリたちは、職に就けないピューリタン聖職者たちを彼らの意向の及ぶ教区牧師職に推薦したり、自分の私的な礼拝堂付きの牧師に抱えたりしたのである。
経済的に実力をつけてきた「高潔なジェントリ」と、職にあぶれて「良心的な」保護者を求めるピューリタン聖職者が、パトロン関係によって盛んに結ばれたのが17世紀初頭であり、1630年代以降、新大陸への関心はピューリタン・ジェントリのあいだで広く共有された。
入植事業に参加することを通じて、ピューリタン・ジェントリだけでなく他地域の指導者たちやピューリタン指導者、さらにはロンドン商人をも巻き込んだネットワークに織り込まれていった。
新大陸という「千年王国」
ピューリタンはイギリス国教会からの弾圧を逃れるために、地下に潜伏したり、オランダやアメリカへの亡命を試みた。
それを思想的に支えたもののひとつが、千年王国論や終末論であった。
千年王国論は原始キリスト教教義であったが、中世を通じての長い異端的扱いをされた時代を経て、17世紀イングランドにおいて有力な教えとして復活した。
政治的な「迫害」、すなわちチャールズ1世の王権神授説による絶対王政やイギリス国教会によるピューリタン弾圧は、「偶像崇拝や神の被造物への崇拝」といった宗教的特徴と不可分に結びついていた。
それゆえ彼らは、自らの信仰と良心にかなう形式によって神を礼拝することのできる理想社会の建設を目指して新大陸に移住した。
ピューリタンはかつてのユダヤ民族に自身たちを投影した。
そして彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしをあなたにつかわして言われます、「わたしの民を去らせ、荒野で、わたしに仕えるようにさせよ」と。(「出エジプト記」7章16節)
という“神の声”を聞いたユダヤ民族は、奴隷の地エジプトという伝統的な定住状態から「脱出」(Exodus)し、カナンの地という「新しい地」を求めてシナイの荒れ野を旅した。
そのユダヤ民族の経験はまさにピューリタニズムの精神でもあったし、その意味でアブラハムは最初の“ピルグリム”であった。
新大陸の移住者は、未開の荒野に「新しいカナン」を建設することが神の摂理であると信じて疑わなかったし、自分たちはそのために選ばれたという使命感をもっていたし、そういう予定論的思をピューリタンはつねに好んだ。
目の前の新しい世界は、未開の原野であれ、そこに先住していたインディアンであれ、神の摂理の下に服されるべきものとみなされ、その成功は自らの救済のしるしとされた。
そうして“西部”の概念は変化し、やがてアメリカ全土をのみ込んだ。
変質する「明白な天命」
「マニフェスト・デスティニー」(明白な天命)とは、アメリカの西部開拓を正当化する標語で、合衆国が西部に向かって拡大膨張をとげた1840年代に、膨張主義者によって熱心に説かれた。
コラムニストで編集者のジョン・L・オサリヴァンが1845年『デモクラティック・レビュー』誌において発表した論文で使用したのが初出とされ、スペインの支配下にあったテキサスが独立宣言をすると、その併合の正当性を訴えて「明白な天命」論文を発表してこう述べた。
「自由と自治政府とからなる連邦という偉大な実験を進展させるために、神が与え給うたこの大陸全体を、覆いつくし、所有するのは、われわれの明白な天命(マニフェスト・デスティニー)がさだめる権利なのである。」
この「明白な天命」が、合衆国によるテキサスの併合、オレゴン割譲を正当化し、アメリカ国民をメキシコ戦争に駆りたて、メキシコからカリフォルニア、ニューメキシコという広大な領土の獲得を実現させた。
19世紀後半に誕生し、合衆国国民に広く受け入れられたこのスローガンは、しかし観念としての起源は16世紀から17世紀のイギリスに遡る。
イギリスが活発な植民地活動を展開した17世紀までに、イギリス人は幼少のころから、人類の歴史のコースは神によって定められ、神の贖罪の努力はイギリス、とりわけイギリスのピューリタンに向けられていると教えられていた。
初期のアメリカ移住者は、新世界の開拓を神によって定められ、神の栄光を讃えて神の恩恵を拡大するための事業として自覚し、その使命を実現しようと活動した。
彼らはアメリカ入植を宗教的迫害からの逃避としてではなく、模範的なキリスト教社会を建設する積極的使命をもつ者として考えていたし、もっとも重要な仕事は、だから宗教と信心の種を蒔くことにあると考えていた。
しかし18世紀末、独立革命によって13植民地がイギリス本土から独立し、合衆国が“自由な共和国”として発足すると、彼らの使命の観念はやがて政治的性格を帯びていく。
この時期、アメリカ人の国民的使命についての自覚が高揚すると、アメリカ人は神によって選ばれた新しいイスラエル人であるという観念(Idea of American Israel)が主張されるようになった。
アメリカ人にとって独立の達成と新共和国の発足は、人類の自由獲得のための偉大な実験であり、同時に旧世界の対するモデルの樹立のための努力とみなされた。
それで「明白な天命」の観念にあたらしい内容が与えられることになった。
・自然的権利の原理を政府に適用し、デモクラシーを維持し、完成すること
・合衆国が共和制のモデルとなり、圧制や暴政に反抗してこれを排除すること
「明白な天命」は変質し、インディアン虐殺、西部侵略を正当化する標語となった。
アメリカ合衆国の拡張を「文明化」や「天命」とみなし、19世紀末に“フロンティア”が事実上消滅すると、それはスペインやメキシコやフィリピンとの戦争、ハワイ諸島併合など、合衆国の帝国主義的な領土拡大や覇権主義を正当化するための言葉となった。
イギリスの帝国主義政治家ジョゼフ・チェンバレンも「マニフェスト・デスティニー」の語を使用し、「アングロ・サクソン民族は最も植民地経営に適した民族であり、アフリカに文明をもたらす義務を負っている」と語っている。
アングロ・サクソン系は植民地支配で富を生み出すのであり、それゆえいまでもビジネスの基本は「マネジメント」なのである。
■参考資料
ブルース・カミングス著、渡辺将人訳『アメリカ西漸≪明白なる運命≫とその未来』東洋書林、2013年
角山栄『生活の世界歴史10 産業革命と民衆』河出書房新社、1975年
ビル・トッテン『アングロ・サクソンは人間を不幸にする』PHP文庫、2003年
「アメリカ社会理解の史的原点―プリマス植民地形成をめぐって―」ICUアメリカ研究読書会、1991年
岩井淳「ピューリタン・ジェントリ論の射程」静岡大学人文学部人文論集、2001年
田村光三「アメリカにおける宗教と経済-アンチノミアン論争の場合」明治大学社会科学研究所紀要、1992年
森孝一「「アメリカの夢」の行方」同志社大学基督教研究会、1991年
山岸義夫「『マニュフェスト=デスティニー』の成立」金沢大学文学部論文集、1981年
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