2020
05.15

『儒教の本質と呪縛 社会をゆがめる根源』と中華式「右でも左でもない」儒教、その排他性・独尊性がもたらす禍

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カール・マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で、「支配階級の思想はどの時代にも支配的な思想である。すなわち、社会の支配的な物質的な力であるところの階級は、同時にその社会の支配的な精神的な力である。物質的生産の手段を左右する階級は、それと同時に精神的生産の手段を左右する」と述べている。

つまり、支配階級がもっている思想が社会の主流な意識となるということだが、儒教国家である中国では儒教道徳が社会の主流意識となり、それゆえ中国では「道徳」を重んじ、民に「善」を求めるということになる。

このコロナ禍、日本のトップである安倍晋三は会見で、「敬意」「感謝」「支え合いの気持ち」「思いやりの気持ち」「絆」の力があればウィルスに勝つことができる、と、数字やデータを根拠にした具体的な行動計画ではなく、道徳的な行動をするようにと国民にたいして「善」を求めて解決策としたが、これは日本の支配階級が中国とおなじ儒教道徳を理想としていることを示している。

検察庁法の改正案に限らず、法律や憲法を支配階級の解釈に合わせて改正しようとするのは、彼らが法よりも徳を重要視していることの現れである。

その変えられた法によって守られるのは民の権利ではなく支配階級の立場であり、独裁を可能にするものである。

 

儒教は本質的に、建前と本音が違う有名無実の教説である。

儒教では、「天からの命を受けた世界の中心者である有徳者が天下を治める」という徳治を掲げるが、法がなければ天下は治められないのが現実である。

それゆえ「陽儒陰法」「外儒内法」(表向きは儒家、実際は法家の理論による統治)といわれ、実際は法の秩序に頼りながら、「仁」だ「礼」だと徳治を美化する二枚舌であり、「羊頭狗肉」が儒教の本質である。

その儒教とマルクス主義、社会主義は、「独尊性」という強い類似性をもっていると『儒教の本質と呪縛 社会をゆがめる根源』はいっている。

 

 その類似点の一つとしてあげられるのが「独尊」体質である。独尊といっても強力な影響力や魅力をもっているわけではなく、異なる言説はすべて排除しなければ生き残れないことは、新儒学としての朱子学の排他性からも明らかです。それは大中華や小中華における「朱子学国家」としての根拠のない自信にもつながっているといえるでしょう。

儒教に競争力がまったくないことは、歴史の歩みから見ても一目瞭然です。孟子は同時代の墨家集団や楊朱らの人気に圧倒されるばかりで、老荘思想からの批判にもまったく反論できませんでした。

そもそも教祖の孔子からして「鬼神を敬して遠ざかる」と言っているにもかかわらず、儒教は本質的に宗教集団であり、祭り事や「鬼神」と無縁ではいられません。このような点を他派から矛盾として指摘されれば反論できないのです。

政治思想としても「法治ではなく徳治、仁義が第一だ」と唱えたところで、民に教化を施し、道徳力までつけるのは不可能に近いことです。このように時代錯誤と矛盾に満ちているので、饒舌に「仁義」を語るだけでは、誰も見向きもしません。

(中略)

儒教も社会主義も、一言でいえば「思想が貧困」なのです。自由競争下では生き残れないので、漢と明における儒教独尊、人民共和国におけるマルクス・レーニン主義、毛沢東思想などの独尊も、真正面から自由競争を挑むことができない弱み、ソフトパワーのなさの現れといえます。

また両者とも、全体主義的な性格が非常に強いという共通点があります。儒教は教祖の孔子の代から中華式の「左でも右でもない」中の全体主義的性格の思想でした。尊王攘夷、天下大統一という「天下一国主義」の政治思想から見ると、儒教はまさしく「中の全体主義思想」そのものです。(p.98-100)

 

儒家が掲げる徳治は、しかし、限られた小さな領域でしか成立しない。

原始村落や部落社会、オンラインサロンなど、その程度の規模を超えて成立することは不可能であり、それより大きな領域では、法なしに民を治めることはできない。

儒家の倫理道徳思想は、あくまで「あるべき」と説くものであって、社会には存在しない。

ユートピアがどこにもない場所であるように、儒家の説く「こうあるべき」は実現しえない実態のない虚像である。

 

 儒教の考えでは、「有徳者」は天命を受けて天子となり、天下万民に君臨するのが理想の政治だとされます。では有徳者、すなわち道徳を有するとはどういうことかというと、それがいわゆる「修・斉・治・平」です。つまり正心(心を正して)から修身(身を修める)、そして、斉家(一家をととのえて)から、はじめて国を治め、天下を平らげることができる、というものです。

つまり天下人としての「真命天子」(真に天命を受ける「天子」)となるのには、このようなコースをつうかしなければならないというのが儒家の原理主義の主張であり、私も学生時代にこのような教育を「千年不変」として教えられました。

とはいえ歴史上、このような天下人は一人もいませんでした。前に述べたように漢の武帝や唐の太宗といった明君・名君とされる天下人も、多くが一族皆殺しの争いを生き抜いてきた勝者である。「修身」どころではなく、食うか食われるかの骨肉の争いを制さなければ天下に手がとどきませんでした。

それでも儒者は頑迷にドグマを死守し、「徳治」の存在を信じて疑おうとしません。(p.114-115)

個人、家庭、国家、世界と主管するものの次元を上げていきなさい、というのはたしかにもっともなことばだが、それを説く本人が異なる方法で天下を平らげてきたのなら、皇帝の存在を以て、その皇帝のことばに再現性がないことを証明している。

それはたとえば、「救い」のためには異性関係は罪であるため、信者は一定期間独り身であれと説く妻帯者の指導者が、夫のいる未熟な女性信者が誘う粘膜接触を拒まないくらいばかげて説得力をもたないことであり、それは、コロナ禍の艱難の解決方法に、「敬意」「感謝」「支え合いの気持ち」「思いやりの気持ち」「絆」をあげながら、自身は国民にたいしてはそれらをほとんど一切示さない指導者と、性質的に類似性がきわめて強い。

 

仁だ礼だと耳障りのいいことをいって、儒教は指導者がいったことばの実践を求めるが、再現性のないことばに囚われた民は、その当然の権利としての自由を失う。

世界中で「孔子学院」の閉鎖が続いていることを、というより、日本にも数多くある孔子学院のなんたるかを日本の大手メディアは報道しないが、学問の自由を奪うのが儒教であり、そのことが問題視されて閉鎖が起こっている。

「儒家」「儒学」「儒教」こそ天下唯一にして万世不易の学びであり、これがあれば充分、という唯我独尊が儒教の本質である。

それゆえ、儒教的組織の指導者は自分ひとりが他のだれよりもすぐれて尊いとし、その状態を脅かす者を排除する。

指導者自身より優れている人ほど排除されるのは、指導者の矛盾や、ことばの目的はただ不自由にすることだという事実を見抜かれ、異を説を唱える人が中にいては、「天下統一」が立ち行かなくなるためだ。

そして儒教での天下統一とは、ただ実権を握るにとどまらない。

 

世界はすべて一つにし、衣服も食事もすべて同じなのが大同の世界というユートピアです。「天下一主義」「三教合一」「万教帰一」などのチャイナ・ドリームも大同の世界を目指すものといえるでしょう。

ここで「三教」とはあらゆる宗教を意味するもので、天主(カトリック)、天方(イスラム)など天下の宗教の中でも儒教が最高とされています。そして三教合一が実現すれば、世界は同教、同倫、同俗となり、それが人類の至福千年の到来なのだ、というのが、漢以後の儒学者の唱える思想なのです。(p.169)

中華思想を具現化している中国共産党の実態が大手メディアで語られない日本において、個人や団体に中国共産党のような唯我独尊、自己中心、優越意識という類似点を見抜くことは、かんたんではない。

しかし、信じた人をよく確認したら、強盗であり、窃盗であり、詐欺師だった、ということは残念ながら起こり、それは、一見無関係な、あるいは争い合っているように見える双方が、その自覚の有無はともかくじつは同じ目的に向かって進んでいるために起こる。

世界を画一化することを本気で理想に掲げて活動する人たちおり、それはきのうきょう始まった話でもない。

その連綿と続いてきた理想の根幹となっている中華思想や儒教による禍は、もはや知りたくないではすまされない。

■参考図書

黄文雄『儒教の本質と呪縛 社会をゆがめる根源』勉誠出版、2018年

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