2022
11.01

「時間泥棒」とペトロダラー 3 -「神の銀行」か「バチカン株式会社」か-

その他, 文化・歴史

「時間泥棒」とペトロダラー 1 -SWIFTの原型をつくったイタリア商人-
「時間泥棒」とペトロダラー 2 -「神の代理人」が意味するもの-の続きです。

 

中世以来分裂が続いていたイタリア。

1860年のイタリア王国建国で一旦は統一されるも、1870年ローマがイタリア軍に占領されると教皇領は消滅し、教皇はバチカンの丘にたてこもってイタリア政府と対立状態にあった。

ヨーロッパ諸国を巻き込んだ「ローマ問題」が和解したのが1929年2月11日、ファシズムの創始者ムッソリーニ政権が教皇庁と結んだラテラノ条約だった。

 

特権と免責に守られるバチカン

ラテラノ条約は三つの側面から成り立っていた。

「政治条約」では、教皇を44ヘクタールの領土をもつ主権者と認め、教皇庁に対してバチカン市国における独立した完全なる主権をもつことが認められた。

「財政に関する協定」では、失われた教皇領に対する賠償金15億リラが教皇庁に支払われた。

「政教条約」では、カトリックがイタリアの国教になることが認められた。

司教を任命する権利は教皇ひとりに与えられ、新しい司教は王に忠誠を誓わねばならなかった。

これ以外にもいくつかの決定がなされたが、小中学校での宗教教育の義務化、離婚の禁止、修道会に財産を保有できる法人格が与えられること、など、いずれも教会に極めて有利な内容だった。

カステル・ガンドルフォ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂の三か所の総大司教区聖堂、そのほかいくつかの付属建造物から成り立つ70万平方メートルにおよぶ法王領は、イタリアの税金を免除されるか、財産が押収されないなどイタリア政府の管轄外にあり、バチカンの独立国としての権利の大部分は、イタリア政府が肩代わりすることで維持された。

ムッソリーニとヒトラー

 

「神の銀行家」暗殺事件

そのバチカンには「神の銀行」と呼ばれる宗教事業協会、通称「バチカン銀行」(IOR)がありバチカン市国の財政を管理している。

「20世紀最大の金融スキャンダル」と呼ばれたアンブロシアーノ銀行頭取ロベルト・カルヴィ暗殺事件や、そのほかバチカンを“巻き込んだ”怪しげなすべての取引の背後には、アメリカ人枢機卿でバチカン銀行総裁のポール・マルチンクスがいた。

 

1982年6月18日、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ(黒い修道士)橋の足場に、ロベルト・カルヴィが死体となってぶら下がっているのが発見された。

巨額の金融操作を行い、14億ドルの負債を抱えて破綻に向かっていたアンブロシアーノ銀行頭取の死は、自殺であるのが明らかに見えた。

が、カルヴィの遺体のポケットには、ドル札の束とレンガの半分という“フリーメイソンのしるし”が見つかった。

それはいかにも殺人だった。

 

不審死をしたのはカルヴィだけではなかった。

カルヴィの死の6年前、バチカン銀行の財政改革を公言していたヨハネ・パウロ1世が、就任後わずか33日目に急逝した。

ヨハネ・パウロ1世は、当時、聖職者や低所得者層向けに低金利で融資を行っていたカトリカ・デル・ヴェネト銀行を、バチカン銀行がその主要株主であるアンブロシアーノ銀行頭取のカルヴィとマルチンクスが共謀し、脱税と株式の不法売買のためにとともに秘密裏に売却したことに抗議していた。

しかし、抗議の対象となったマルチンクスは、教皇パウロ6世よりバチカン銀行総裁に任命されていたという理由で罷免されず、その後も総裁を続けることになった。

だれがカルヴィを“殺した”?

 

バチカンの内部資料

2003年、バチカンのおびただしい数の未公開文書、銀行の取引記録、「裏」の収支報告書や送金の仕様書、暗号で呼ばれる口座の取引控えなど4000点の内部資料が、1974年から1990年代後半にかけてカトリック教会の資金管理に携わった、バチカンにおいてもっとも重要な人物のひとりレナート・ダルドッツィ師の遺志で明らかになった。

なぜアメリカ人司祭だったマルチンクスが、若干30歳にしてバチカン国務省の重要ポストに就くなど早くにバチカンの中枢に入りこめたのか。

それは、ニューヨーク大司教のフランシス・J・スペルマン枢機卿らの推薦によるとされている。

スペルマン枢機卿は、東西冷戦時代のアメリカの有力な枢機卿であった。

冷戦の時代は、ロシア革命後に社会主義を世界に広げようとしたレーニンと、それに脅威を感じる資本主義世界の対立によって、両国の武力を用いた直接紛争はなくとも両国が介入して東西各勢力を支援する代理戦争が多数勃発した時代であり、スペルマン枢機卿は、冷戦時代のアメリカとバチカンの関係を方向づけた人だった。

当時の教皇ピウス12世は、スペルマン枢機卿が唱えた反共産主義テーゼに大いに注目しており、また、バチカンでもっとも影響力のある人物のひとりベルナルディーノ・ノガーラ技師とも深い関係があった。

スペルマンが「イエス・キリストに続く、カトリック教会史上最も偉大な人物」と称えたノガーラは、1929年のラテラノ条約でイタリアから支払われた賠償金を運用し、バチカンの金庫を潤した男である。

聖座財産管理局の通常運用資金として5億ドル相当の金融資産と9億4000万ドルの資産を残し、この資産によってバチカン銀行は、利子だけで毎年4000万ドルの収入が入ることになった。

 

1971年、マルチンクスが教皇パウロ6世の信頼を得てバチカン銀行総裁になったころ、バチカンの財政状況は低迷していた。

信者からの献金額が190億リラから50億リラに減り、それまで免れてきたイタリア政府による配当利益への課税が導入され、世界の金融危機が危惧されていた。

そのころには証券取引市場の2~5%を操るようになっていたバチカン保有の株式を、海外に移すことをパウロ6世が決断すると、その任務をマルチンクスは、パウロ6世と懇意の銀行家でありマフィア資金の運び屋ミケーレ・シンドーナとともに遂行した。

マルチンクスとシンドーナによる型破りな金融操作をしずかに見つめていたのが、そのころは銀行家としては駆け出しだったドナート・デ・ボニスだった。

バチカン銀行トップによる“ネットワーク”を駆使した金融取引の“流儀”は、やがて彼に引き継がれていくことになる。

フランシス・J・スペルマン

 

武器密売と資金洗浄と「汚い戦争」

カルヴィの死を「口封じ」を願う者として噂された者は、マルチンクスだけではなかった。

イタリア政財界、マフィア、フリーメイソンのロッジを隠れ蓑に反共主義を掲げイタリアを中心に活動していた「ロッジP2」、ユダヤ系金融家の大富豪、ヨハネ・パウロ1世を継いでローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世の出身国のポーランドの反体制(反共産主義政府)組織の独立自主管理労働組合「連帯」を資金援助していたCIAなど多岐にわたったのは、暗殺前、カルヴィがそれらにつながる巨額のマネーロンダリングを行っていたからだ。

ヨハネ・パウロ2世と関係が深かったカルヴィは、“神の名において”アメリカやイタリアのマフィアが麻薬による資金のマネーロンダリングを行っていた。

マネーロンダリングに際し、多額の融資を行うペーパーカンパニーの口座をバチカン銀行につくり、うち6社はパナマに本拠地を置き、ヨーロッパにおけるべつなタックスヘイヴンとして、ルクセンブルグ、リヒテンシュタインにも設立した。

 

ルクセンブルグ、ミラノ、ナッソー、リマの複数の銀行から、パナマのペーパーカンパニーに数億ドルの巨額の融資を手配していたカルヴィは、ローンの返済が来ると、恩赦状のようなものを用いて支払いを遅らせた。

カルヴィは銀行に、パナマの企業は信用に値するもので恩赦状も機能すると主張していた。

融資をした銀行にとってそれがとても複雑な祝福であったのは、その恩赦状にはバチカン銀行総裁ポール・マルチンクスの署名があったからだった。

それゆえカルヴィは、バチカンの祝福を受けている人だと思われていた。

しかし、カルヴィのマルチンクスに対する見返りは、バチカン銀行は一切の借金の責任を負わないという秘密の書面による合意書であった。

カルヴィの死で行方不明となった14億ドルは、バチカン銀行が管理する10のペーパーカンパニーに貸し付けされたものであり、それらペーパーカンパニーは担保や利子の必要なく貸付金を取得していた。

そしてバチカンは、バチカン銀行が一切の借金の責任を負わないという秘密の書面を今日も保持しているという。

バチカン銀行は、いかにも“神の銀行”なのである。

 

またカルヴィは、パナマに本拠地を置く資本金1000万ドルのベラトリックス社にアンブロシアーノ銀行から1億8400万ドルを手配し、フランスの空対艦ミサイル「エグゾセ」購入している。

ミサイルの形から「トビウオ作戦」と名付けられたこの計画は、アルゼンチン沖のフォークランド諸島(マルビナス諸島)をめぐるフォークランド戦争の直前に、イギリスのサッチャー率いる陸海軍に対抗するアルゼンチンのガルチェリ独裁政権に売却された。

そうして得られた資金は、株の58%をバチカンが所有しているパナマに本拠地を置くベラトリックス社を通じて転用され、レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」によるポーランド革命に資金提供された。

 

バチカン銀行はアルゼンチンの軍事独裁政権ほかにも、ニカラグアのソモサ独裁政権、ハイチのデュヴァリエ独裁政権、エルサルバドル独裁政権といったラテンアメリカの独裁政権に資金を提供している。

このことは、バチカンの裏金が、1976年から1983年にかけてアルゼンチンを統治した軍事政権によって行われた国家テロ「汚い戦争」の資金源になった可能性を示唆している。

当時のアルゼンチンはカトリックが事実上の国家宗教であり、軍事政権を支持するカトリック教会は、信者に対して「国を愛する」よう求めていた。

それはクーデター前夜、司教団のトップであるトルトロ大司教は蜂起主導者であるホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍と密会し、きたる軍事政権への支持を約束していたからだった。

3万人が死亡または行方不明となった「汚い戦争」当時、イエズス会のアルゼンチン管区長を務めていたのが現ローマ教皇フランシスコで、軍事政権の迫害に教会の同意があったと指摘された。

軍事政権により2人の司教と17人の司祭が殺害されたことについて、のちの裁判で裁判官は「教会組織が司祭の殺害から目を背けた」と批判し、軍事政権の指導者の一人であったビデラも、教会の指導者たちは政府による弾圧の共犯者だったと証言している。

マルチンクスとヨハネ・パウロ2世

 

バチカン銀行という無謬性

バチカン銀行はいかなる規制も受けない。

バチカン銀行の経営にたずさわる者には完全なる黙秘権が許され、刑事責任は一切問われない。

経営の独立性が保証され、顧客にも取引の秘匿が保証されている。

カルヴィ暗殺の翌年に、「アンブロシアーノ銀行の破綻の責任者である」としてマルチンクスにはイタリア検察から逮捕状が出たが、ラテラノ条約がそれを許さなかった。

さらにイタリアの最高裁判所にあたる破毀院の解釈によれば、教皇庁の中央機関で働く者は、事実上、いかなる法規も適用外であるかのような免責待遇を受けるのであり、イタリア共和国大統領がもつ免責特権に等しいほどの特権のおかげで、バチカンという「外国籍」の住人マルチンクスに対する逮捕状は無効とされた。

1990年以降の規定では、聖職者でないバチカンの住人や外国人も顧客になれるようになったが、口座開設の唯一の条件は、「預金の一部を「慈善活動のために使うこと」とされている。(バチカン銀行規約第2条)

同2条にはこうもある。

バチカン銀行の役割は、個人及び法人が宗教事業や慈善事業を目的としてバチカン銀行に移し、あるいは託した動産および不動産を預かり、管理することにある。したがってバチカン銀行は、少なくとも部分的に、または将来的に、前項に記載のある目的で使用される財産を受け入れ、バチカン銀行は、教皇庁やバチカン市国の各団体および個人による財産の預け入れに応じることができる。

 

さらに、イタリア国家とのあいだに定められた法令や協定が、バチカン銀行にオフショア銀行(預金者が居住する国の外にあり、外国の金融当局の管轄下に置かれている銀行)としての営業をも可能にしている。

つまりバチカン銀行は、銀行間のマネーロンダリングを防止するための国際協定や規定にしばられることなく、自由自在な金融取引を行うことを可能にするという特徴をもっているのである。

タックスヘイヴンといえるバチカン銀行で、マルチンクスとシンドーナによる金融取引の“流儀”を学んだデ・ボニスに白羽の矢がったのは、マルチンクスがヨハネ・パウロ1世急逝やロベルト・カルヴィ暗殺など一連の事件への関与を疑われ、司法当局からの追手が伸び逮捕の危機にさらされていたころだった。

そのころにはバチカン銀行の実質的なナンバー2になっていたデ・ボニスを、マルチンクスは特別顧問に選び“支配者”とした。

そのデ・ボニスは、オフショア体制の基盤となる暗号で呼ばれる口座を使い、バチカンの城壁内にいながらにしてマネーロンダリングを行う“ネットワーク”を張り巡らせた。

ヨハネ・パウロ2世とジュリオ・アンドレオッティ

 

“慈善事業”にあふれた元首相の裏口座

デ・ボニスは正規の手続きをとってバチカン銀行に新生オフショア体制の口座第一号、001-3-14774-Cを開設し、名義を「フランシス・スペルマン枢機卿基金」とした。

「スペルマン」は、マルチンクスとバチカンをつないだ、あのスペルマンである。

畏れ敬われた枢機卿にしてアメリカ合衆国の従軍司教であり、アメリカ政府とCIA、バチカン、イタリアのあいだをとりもったあのスペルマンの名にあやかっているが、しかしこの謎の多い基金の詳細はなにもわからないに等しかった。

それもそのはず、この基金は存在しない架空の団体だったのだ。

口座名義を架空の慈善事業基金の名前にすることの意味は、バチカン銀行に口座を開設する者は、名義人の死亡時に、口座残高を相続する者を指定した遺言状を封書で提出することが義務付けられている、という独特のルールに関係がある。

当該「スペルマン枢機卿基金」の口座の手続書類にも、口座開設者であるデ・ボニスの遺言状が含まれていた。

私の死亡時、口座001-3-14774-Cに残る預金は、ジュリオ・アンドレオッティ閣下がお受け取りになり、その思慮深いご判断により、慈善事業や援助事業に使われますように。尊い神の名において、感謝いたします。

ドナート・デ・ボニス

バチカンにて、1987年7月15日

 

ジュリオ・アンドレオッティはかつて存在したイタリアの政党キリスト教民主主義の議員であり元首相である。

アンドレオッティは在任中、キリスト教民主主義の他のメンバー同様一貫して親西側諸国、反東側諸国(反共)の姿勢をつらぬき、とりわけアメリカとはNATOや貿易面でイタリアと関係が深かったアメリカと良好な関係を保っていたと言われている。

アンドレオッティのマフィアをはじめとする犯罪組織との親密な関係は、首相就任前のみならず首相在任当時も、国内外において半ば「公然の事実」として扱われていた。

つまり口座番号「001-3-14774-C」は、アンドレオッティ元首相の秘密口座であった。

「スペルマン枢機卿基金」は、バチカン銀行の特別顧問ドナート・デ・ボニスがアンドレオッティの代わりに管理していた裏口座であり、口座開設の1987年から1992年までのあいだで、実に260億リラ(2640万ユーロ)の現金が持ち込まれていた。

金の出どころは、キリスト民主党と親しい関係にあった幽霊会社が「スペルマン枢機卿基金」口座開設の以前から活動していた実体のない団体をつうじた献金、あるいは外国の銀行からの送金だった。

 

送金の中には慈善事業を名目にしているものもあった。

やましい取引の温床となっていた「スペルマン枢機卿基金」口座からは、定期的に何百件もの献金や寄付が、シスターや修道院、女子修道院長、修道士、修道院長、宗教機関、修道会士、宣教団体に送られていた。

金はさらにそこから、顕著な慈善事業を行った個人へと流れた。

敬虔な信者や清廉な団体に流れる“神の恵み”の出どころは、俗世の人びとのやましい取引による洗浄された資金であったが、「スペルマン枢機卿基金」のような架空名義口座群はほかにもあった。

「ルイス・オーガスタ・ジョナス基金」、「サン・セラフィーノ基金」、「白血病撲滅のための〈ローマの〉母基金」、「〈ローマ〉チャリティー基金」、「ルルドの聖母基金」などどれも慈善事業を思わせる口座名がつけられていた。

またカトリックの信者がミサを執り行う資金としてなされた献金が集まる口座からは、残高以上の額が別口座に移され、それは正規の口座管理者の許可なく行われ、取引に必要なサインも提出されていなかった。

デ・ボニスが築いた裏口座ネットワークを用いたオフショア体制は、死者を偲ぶためのミサを依頼した信者の寄付さえも吸い上げていた。

 

伝統的に聖職者が慈善のために利用していた「神の銀行」バチカン銀行は、ローマのど真ん中にあって莫大な資金の“洗濯機“として機能していた。

「時間泥棒」として利子を嫌ったカトリック教会の教義が、よいことに使うなら蓄財もよしとして大聖堂など芸術を保護したルネサンス期から400年。

その教義は、大胆な金融操作と“慈善事業”、マネーロンダリングによって莫大な利益をあげる「バチカン株式会社」というマネー社会の芸術の保護者となっていた。

 

 

■参考資料

ベルナール・ルコント著・吉田春美訳『バチカン・シークレット 教皇庁の秘められた二十世紀史』河出書房新社、2010年

ジャンルイージ・ヌッツイ著・竹下・ルッジェリ・アンナ監 花本知子・鈴木真由美訳『バチカン株式会社』柏書房、2010年

“La Santa Alianza o La Entidad”……..En el Vaticano lo que no es sagrado… es secreto.

La parabola di Paul Marcinkus, dal paese di Al Capone allo scandalo IOR

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