2019
08.29

修道院が沈黙する理由

ワイン考, 文化・歴史

 

中世ヨーロッパで、ぶどう栽培とワイン醸造を主導したのはキリスト教の修道院でした。

イエス・キリストがワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となったのです。

シャンパーニュの生みの親ドン・ペリニョンはベネディクト派修道院の修道会士でしたが、この修道院が発展したのが、8世紀、カール大帝の時代です。

カール大帝はカロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子です。

フランク王、ローマ皇帝、初代神聖ローマ皇帝とみなされ、ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされている人で、生涯の大半を征服に費やし、46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっています。

 

カール大帝はフランク王国を「キリスト教帝国」とみなしました。

キリスト教にもとづく統治を進めるには、「聖職者の資質を高め」、「教会を発展させる」ことが必要と考えたのですが、そのために「祭壇と玉座へ提携をつよめ」、半世紀に及ぶ王位期間で「教会に関する政策」に取り組み、「修道院を保護」するとともに「修道士についての定め」を数多くだしました。

征服した各地に教会や修道院を建て、779年に発布した本格的な勅令である『ヘルスタルの勅令』では、すべての修道士がベネディクゥスの『戒律』に従うことを定めました。

この『ヘルスタルの勅令』で、フランク王国に住む全住人が「十分の一税」を教会に納めるべき税金であると定められ、自発的にではなく強制的に徴収され、その徴税の決定権は各地の司教がもちました。

そして以後の一般的な税の一つとなりました。

 

「祈りかつ働け」の標語で有名な『戒律』を書いたのは、ヌルシアのベネディクトゥスです。中世のキリスト教の修道院長であり西方教会における修道制度の創設者で、「西欧修道士の父」と称された人です。

529年ころ、イタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノに修道院を設け、540年ころ『戒律』を執筆し、共同で修道生活を行いました。

「服従」、「清貧」、「童貞(純潔)」など極端な節制を諫め、ベネディクト修道会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれました。

『戒律』は、12世紀に至るまで西方教会唯一の修道会規で、フランシスコ会・ドミニコ会以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなりました。

映画『大いなる沈黙へ』はカルトジオ会のグランド・シャルトルーズ修道院を撮影したもので、修道士は「孤独と沈黙」に生涯を捧げるといいますが、このカルトジオ会の『シャルトリューズ修道院習慣規則』もまた、ベネディクトゥスの伝統を受け継いでいます。

 

 

ベネディクト修道会の活動は、ヨーロッパ各地に広がる運動の礎を築きました。

ブルゴーニュでは、910年、アキテーヌ公ギヨームがマコンの荒地にクリュニー修道院を建設寄進しました。

それはベネディクトゥスの戒律を厳守し、正しいキリスト教の世界を具現させるのが目的で、寄進の条件として「いっさいの世俗的支配から免れ」、「教皇のみに従属する」組織として始められました。

そのため、歴代のローマ教皇はクリュニー修道院にとびきりの特権を与え、信者たちに寄進を促しました。

その結果、クリュニー修道院は、50年後には全ヨーロッパの富をひきつけ、12世紀初頭には、キリスト教世界で未曾有の宗教帝国の首都といえる存在になっていました。

のちにローマのサン・ピエトロ寺院が建立されるまでは、クリュニー修道院はヨーロッパ最大の寺院といわれる建築物をもち、管轄下に約1500の修道会と修道士2万人を抱え、ヨーロッパを精神的に支配するようにまでなりました。

『戒律』には、修道士の区分や指導者の心得、聖務日課、修道院の管理・運営、食事の時間や量、労働などについて細かく規定が書かれていますが、その中にある食事についての規定で、「一回の食事でだされるのは調理したもの2品と果物もしくは野菜、加えてパンが一日約300グラム」とあります。

また、四足獣の肉は「非常に衰弱した病人を除いて」禁止され、健康が回復した病人には「慣例に従い肉をすべて絶つ」と念を押しています。

 

現在、世界的に謎の菜食主義が流行しています。

ヴィーガンと呼ばれる、肉のみならず一切の動物系の製品を排除する完全菜食主義者もいるようですが、その根源の一端は、このベネディクトゥスの『戒律』にあると考えます。

しかし人は、摂るべき栄養を摂らないと身体が正常に機能しなくなり、脳の機能が低下するとまともな思考ができなくなります。

そもそも、修道院の原型は、3世紀後半から4世紀にかけてのエジプトのナイル河畔のアントニアスなどのものが最初と考えられています。

エジプトはミイラを形成していたことで知られますが、人間のミイラには不老不死の薬効があると信じられ、主に粉末としたものが薬として飲用されていました。

それはカニバリズム、つまり人間が人間の肉を食べる行動の一種です。

悪魔崇拝者たちはミイラにしない生の人間の肉も食べ血を飲んでいるといわれ、そして、菜食者の肉は肉食者の肉より臭みがないのだそうです。

 

ここから想像されるのは、菜食主義とカニバリズムには密接なかかわりがあり、そのカニバリズムは、おもに修道院で行われてきた可能性が高いということです。

2013年、前ローマ法王ベネディクト16世は、「719年ぶりに自由な意思によって退位し」ましたが、彼にはイギリスのエリザベス女王とともに子ども5万人を大虐殺した罪で懲役25年の有罪判決がでています。

当該事件は、子どもたちを強制的に寄宿舎に入れ、細菌感染や拷問などで5万人以上を殺害したというものですが、全世界のカトリック教会の総指導が起こした大量虐殺が、ベネディクト16世が

個人的にエリザベス女王と組んで犯した犯罪だとは考えにくく、また、カトリック教会下で発達してきた修道院が無関係だとは考えにくいです。

さらに、修道院を発展させたカール大帝は天皇家の血筋であるという説もあります。

孝徳天皇(軽皇子)の皇子・有間皇子が渡欧し、フランク王国の執権・ピピン2世と同体とって2人で一役の仕事を担ったといい、そのピピン2世のひ孫がカール大帝で、天皇家とエジプトもまた歴史的に密接なかかわりがあります。

 

大量虐殺のみならず、バチカンの司教たちの性犯罪などが次々と噴出していますが、これはいまに始まったことではなく、歴史的にひそやかに連綿と行ってきたことが、この時代に明るみにでているだけのことです。

グラン・シャルトリューズ修道院の修道士が「孤独と沈黙に生涯を捧げる」ことで、守られるものは一体なんなのでしょう。

 

■引用・参考文献・資料

杉崎泰一郎『修道院の歴史』創元社、2015年

 

フィリップグレーニング・ミヒャエルウェバー・アンドレスフェフリ・エルダギディネッティ『大いなる沈黙へ』、2014年

 

落合莞爾『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』成甲書房、2017年

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