06.22

『サイコパス』とサイコパス信者の特徴、幸せってなんだっけ
・口がうまく、態度や主張をコロコロ変える。
・自己中心的で支配欲が強い。
・おのれの過失の責任は100%他人にあるような物言いをする。
・矛盾を指摘されても、「そんなことは言っていない」とすずしい顔で言い張る。
・それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振舞いさえし、世間に向けて自己の正当性を主張する。
・誇大妄想に取り憑かれているようにみえる。
以上の特徴を読んで、だれか具体的な人の顔が浮かんだだろうか。
わたしも思い浮かんだ。しかも数人。だれもが知っている人と、ほとんどだれも知らない人。
他人に迷惑をかけ、精神的に傷を負わせ、金銭的に損害を与え、それを自覚せず悪びれない。
いっそ強制的に排除したほうが世のためではないかと思われるその人は、しかし、なぜか擁護する人もすくなくない。
ときには信者のような人までいて、「彼/彼女は大変な思いをしているのだ」とか「けっして悪い人じゃない」とか「むしろ魅力的だ」とか、常人には考えられない崇敬を示す。
そうして崇敬する人びとは、上記のような特徴をもつ人たちが高い確率で「サイコパス」だと知らないために現れると、『サイコパス』はいっている。
サイコパスとは、連続殺人犯などの反社会的な人格を説明するために、精神医学において用いられていた概念で、日本語では「精神病質」ともいう。
良心が異常に欠如している、罪悪感が皆無、行動に対する責任感が全く取れていない、などの特徴があり、必ずしも残虐な殺人などを犯す犯罪者というわけではなく、尊大で、自己愛と欺瞞に満ちた対人関係を築き、共感的な感情が欠落した衝動的で反社会的な存在をさす。
尊大で自己愛と欺瞞に満ちた対人関係を築き、共感的な感情が欠落した衝動的な行動をとる人が反社会的存在であるなら、現在の首相である安倍晋三およびその仲間たちは、反社会勢力ということにならないか。
それはともかくとして、サイコパスは、自分に共感性がないことにうすうす気づいているのだという。
他者に共感的なふるまいをまったくしないと、自分に不利になることを頭で理解しているため、人の弱みにつけこむことで、相手をコントロールする技術を身につけていくのだという。
たとえば、こんなことをする人があなたの周囲にいないでしょうか。
――まず、相手に貸しを作る。お金で困っていたらお金を、人脈で困っていたら人脈を提供する。頼まれなくても親切にする。関係の初期段階ではとにかく「この人はいい人だ」「自分を助けてくれて、本当にありがたい」と思わせる。
ところが、ある程度の信頼関係ができたところで、脈絡なく、あるいは非常に些末なことでキレる。
「あんなによくしてくれた人が怒ったということは、自分は何か悪いことをしたのかな?」
本当は謝る理由はないのに、関係を維持するために謝っておこうかな、という気持ちに相手はなっていきます。
それを繰り返して、相手が下手に出て来たところで言いがかりや難癖をつけて「あんなによくしてあげたのに、どういうこと?」などと怒る。普通の人は、恩のある人物から嫌われたくないので、自分が悪いわけではなあいと思っていても,たいていは謝罪します。
するとまた態度を豹変させ、謝罪を受け入れるのです。
(中略)
こうしてアメとムチを繰り返し、被害者側の怒られたくない、嫌われたくないという罰を回避する気持ち、誉められたい、またいい思いをしたいという欲望を巧妙に刺激して、仮がある人には何かお返しをしなければならないという「好意の返報性」を悪用することで、上下関係を完成させてゆく――。(p.50-51)
極端な場合には、その人の許可なしには行動できなくなってしまう、ということさえ起こるわけだが、サイコパスは、冷静にみつけた「カモ」を「落とす」という、ごく自然に人を操作する能力を身につけている。
「良心がない」「道徳心に欠ける」といわれるサイコパスについて、アメリカの心理着者ジョナサン・ハイトは、道徳心を以下の5つに分類したうえで、サイコパスがどの種類の道徳心が低いかについて実験をした。
1.「他人に危害を加えないようにする」道徳心(「他人を殺してはいけない」など)
2.「フェアな関係を重視する」道徳心(「自分は罪を犯してもいいが、相手の罪は許さない」ということをしない公正さ)
3.「共同体への帰属、忠誠」に関する道徳心(所属する集団や組織を大事に思う気持ち)
4.「権威を尊重する」道徳心(序列の重視)
5.「神聖さ、清純さを大切に思う」道徳心(宗教心、信仰心)
そしてサイコパスは、5つすべての道徳心を軽んじているのではなく、ムラがあった。
つまり、1.(他人に危害を加えない)と2.(公正さ)を軽んじ、3.(共同体への帰属心、忠誠心)、4.(権威、序列の重視)、5.(神聖さ、清純さ)を重視しているという結果がでたのだ。
サイコパスのような反社会的集団は、「他人に危害を加えることには抵抗がないが、自分たちの組織のなかでは帰属心や権威、神聖さを重視する」ことで成立していることを示している。
そのような組織に属すれば、まっとうな人でさえサイコパスの影響を受け、サイコパスの要素をもった人間へと変質していく。
なぜ、サイコパスは、他人に危害を加えることに抵抗がないのか。
それは、サイコパスは、「周囲の人間が自分に敵意をもっている」と認識しているからだという。
アメリカの精神科医で、うつ病の認知療法の創始者として知られるアーロン・ベックによれば、サイコパスは自分自身を「強く、自立的な一匹狼」と捉えているという。
ほかの人間は「搾取されるに値する人間」「弱くてもろく、犠牲になる人間」に見えているため、自己を守り、「奪う側」の人間になることで、「奪われる側」になることを避け、そのために、自分には社会のルールを破る権利が与えられていると信じている。
「他者から邪悪な意図を感じる」ために、だからこそ自分も敵意をもって周囲に対抗している、というのがサイコパスの行動様式であるが、周囲の人間が敵にみえているために、いまある世界を壊さずにはいられないのがサイコパスなのである。
存在しない敵を敵と認識し、この世が悪意に満ちた世界にみえているというサイコパス。
しかし、自身の罪についてはアンフェアで、かつ、共同体への忠誠心と序列と信仰心は重視する。
ならば、宗教というものはほとんどサイコパスによって興され、拡大し、争ってきたように思えるが、じっさい、サイコパスの多い職業トップ10には聖職者も含まれている。
サイコパスの多い職業トップ10
1位 企業の最高経営責任者
2位 弁護士
3位 マスコミ、報道関係者(テレビ/ラジオ)
4位 セールス
5位 外科医
6位 ジャーナリスト
7位 警官
8位 聖職者
9位 シェフ
10位 公務員(p.225)
日本を日本株式会社と考えるなら、サイコパスがCEOの日本はブラック企業である。
しかもブラック企業の入り口は、真っ黒ではない。
むしろ当初は入社を希望する人をあたたかく受け入れ、応援するような態度を見せる。
自分を認めてくれる場所だという錯覚を与えたうえで志望者を入社させるが、しかし、しだいにその態度が変貌する。
「お前には期待していたのに、なぜできないんだ。もっとがんばれ」「あいつ、お前のことをこう言ってたぞ。悔しくないのか」などと揺さぶりをかけ、不安感や過剰な競争を煽ります。時には激高して恐怖心を与え、「今のままじゃ転職もできないぞ」などと言って社員の自尊心を損なうようなことをします。そうして退路を断ち、わずかのアメと大量のムチを使い分けながら、長時間労働や厳しいノルマを課し、絶対服従を強いて抵抗できないようにしていくのです。
権威主義的な階層組織を持ち、信者同士の相互監視や競争心を刺激する仕組みを持つ新興宗教団体もあります。あるいは大学の研究室のような閉鎖的な環境でも、同様のケースが見受けられます。(p.189)
「権威主義的な階層」や「信者同士の相互監視」で思いつく組織は、中国共産党がその最たる例で、おそらく共産党員になる際にも、最初はあたたかく迎え入れられ、やがて不安や競争を過剰に煽られ、自尊心を損なわれて退路を断たれ、わずかのアメのために大量のムチに耐えるという、ブラック企業やカルト新興宗教のようなことが行われていることは想像に難くない。
その中国共産党は、「中国共産党中央宣伝部」という当直属のプロパガンダ機関をもち、「五毛党」という中国共産党配下のインターネット世論誘導集団が、宣伝工作を行っている。
五毛党は、中国共産党政権に有利な書き込みをし、「それに関連する事」を批判する人に対する集団攻撃をするが、カナダのマニトバ大学の研究チームによれば、サイコパスは、ネット上で「荒らし」行為をよくする傾向があると明らかにされている。
また、ベルギーのアントワープ大学の研究者グループによれば、サイコパスはフェイスブック上で他者を攻撃したり、ひどい噂を流したり、なりすましたり、恥ずかしい写真を載せたり、仲間はずれにする傾向があるという。
サイコパスには、他人に批判されても痛みを感じないという強みがあります。
したがって、問題発言やわざと挑発的な言動をしてよく炎上し、しかしまったく懲りずに活動を続け、固定ファンを獲得しているブロガーにも、サイコパスが紛れ込んでいる確率は高いと考えられます。彼らは人々を煽って怒った様子を楽しみ、悪目立ちすることで、快感を得ていると思われます。賛否を問わず大きく話題になってクリック数が増えさえすれば収入に直結しますし、いくら叩かれたところで捕まったり殺されたりするような危険はまずありませんから、刺激に満ちた生活を求めるサイコパスにとっては、うってつけの商売と言えます。
いうまでもなく、人物の発言は、真に受けないことです。彼らの脳は、長期的なビジョンを持つことが困難なので、発言に責任を取ることができず、またそのつもりもなく、信じるだけバカを見ます。しばらく観察するとわかりますが、変節に呆れて旧来からのファンが離れた頃に、何も知らない人間が引き寄せられてまた騙され……の繰り返しです。
驚くべきことに、化け皮が完全に剥がれているにもかかわらず、信者のようにずっと付いていく人もすくなくありません。(p.190-191)
人間の脳は「信じる方が気持ちいい」ため、化けの皮がはがれてもなおサイコパスにつき従っていていく人は、自分で判断を行うことの負担と苦痛に耐えきれず、「信じる」ことに逃げている状態である。
人間の脳は、認知していることに矛盾をおぼえると、その矛盾による不快感を解消しようとして都合のいい理屈を思いつくようにできている。
「これは正しい」と一度思い込んだことが、後から「間違っている」と証拠を突きつけられた場合、「言い訳」を考えだし、なんとか間違いを認めずに済むようにしようとして、その結果、「信じる」。
つまり、一度なにかを信じたら、そのまま信じたことに従い、自分の頭で考えず(あるいは、自分の頭で考えたことにして)、自分で意思決定しないほうが脳に負担かかからず、楽ちんであるため、「妄信」を「自由意志としての選択」と思い込むのである。
宗教を信じている人のほうが、そうでない人よりも幸福度が高いというエビデンスもあるそうだけれど、それは、その宗教がまともなものであれ、カルトなものであれ、関係がない。
どれほどいい加減で無責任で、うまくいかないことはすべて信じた自分のせいになったとしても、信じるものがないよりはあるほうが幸せ、ゆえに信じる、というのが、サイコパス信者の幸福なのである。
そしてこのサイコパスの信者は、ネット社会が、その信仰をいっそう強固にしている。
ネット社会になって一般人でも強力な検閲手段を持ち、過去の経歴や言説まで遡って検証できるようになったため、普通に考えればウソつきに騙される確率は減りそうな気がします。
しかし、ネット社会には別の側面もあります。ネットは強力な暴露装置であると同時に、同類の人間を即座に結びつけることができるツールでもあります。どんなトンデモな理屈の持ち主同士、騙されたことを認めたくない信者同士でも、ネットを使えばすぐにつながることができ、クラスター化されてしまいます。そうしたクラスター内では、お互いの存在を確認することによる安心感があり、クラスター外からの声を無視できるため、さらに強固な信者となっていきます。
サイコパスが指導者として信者たちに対し「自分は被害者で、一部の者が私を貶めようとしている」という陰謀論を主張すれば、一定数は信じ続けてしまう環境が整っているのです。(p.199)
根拠のない、あるいはだれにも確かめようがないことを断定して言い広める人たちがいるのはそのためで、インターネットが充実した現代社会は、ただで情報が得られ、物理的距離に関係なく同じ思いの仲間と出会える一方で、サイコパスにも巡り合う可能性を心しておかなければならない。
そして、他人に危害を加えることや自身の罪にはアンフェアであるサイコパスのコミュニティにいったん入ってしまえば、その内部では外部からは想像もつかないほどコミュニティへの忠誠や序列、信仰心が重視され、金品のみならず、肉体的、精神的に搾取される。
幸福度が高いことはよいことで、幸せを感じて生きていたいとはだれもが願うことだ。
でも、いまの時代を生きていれば、不景気や災害や疫病による閉塞感には、どうしたって憂鬱な気分にさせられる。
人を憂鬱にさせる不景気や災害や疫病にたいする解決策を、なにひとつもっていない、と思うと、なんと自分は無知で無力で無価値かと落ち込み、この先どうやって生きていけばよいかと絶望する。
しかし、自身が無価値であると信じ込まされることこそがいちばんの搾取であり、サイコパスのかっこうの餌食である。
目先の幸福を欲するあまりにサイコパスを信じるのは、一番目に欲しいものを手に入れられない恐怖から、二番目に欲しいものを「いちばん欲しい」というようなもので、根本を取り違えている。
サイコパスの指導者はさまざまなものを禁じ、欲することに罪悪感を抱かせるが、おそらくそれはヒントである。
ほんとうに幸せになるためには、自分がいちばん欲しいもの――で、自分でいらないと思って自ら手放してきたもの――を、恐れずにちゃんと欲することだ。
もし、それを得ようとすることがとても怖く、自分がいけないことをしているように思えるのなら、なおさらだ。
■参考図書
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