10.24

「時間泥棒」とペトロダラー 1 -SWIFTの原型をつくったイタリア商人-
「時間泥棒」は、ミシャエル・エンデやJ・P・ホーガンの作品の話ではない。
利子を嫌う宗教が高利貸しを非難してそう呼んだもので、その特徴が顕著なのが、ルネサンス期までのキリスト教と現代のイスラム教である。
イタリア生まれの“Bank”
「銀行」を意味する英語「Bank」の語源はイタリア語の「Banco」で、それは「ベンチ」や「カウンター」を指した中世フランス語の「banque」や古高ドイツ語の「bank/banc」が語源であり、ルネサンス期、のちに銀行家となったフィレンツェ商人が、両替業務を行うためにカウンターとして細長いテーブル(Bnaco)を用いたことから「銀行」をあらわす単語となったものだ。
10世紀から14世紀の「中世の商業革命」で、商業と銀行業の分野で中心的な役割を果たしたのがイタリアの大商人や銀行家だった。
複式簿記や手形、保険という、現代ビジネスで用いられているのとほとんど変わらない技術を考案したのが中世のイタリア商人で、とりわけ銀行業はイタリア商人が独占的に支配した。
キリスト教会が嫌ったのは、利子の高低ではなく、利子そのものだった。
利子をつける金の貸し借り、たとえば、10万円を貸して翌年11万円返してもらうことは、“神に属する時間を売買する行為”と考えて禁じ、それで高利貸付(ウズーラ)は、「時間泥棒」として非難された。
もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。(「出エジプト記」22章24節)
同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。(「申命記」23章20-21節)
しかし、旧約聖書というキリスト教徒と同じ聖典を持つユダヤ教徒は、異教徒であるキリスト教徒のことを「同胞」ではなく「外国人」とみなし、キリスト教徒に徴利を行ってきた。
コルレス銀行としてのメディチ銀行
ルネサンス期を代表する銀行家メディチ家は、農民から薬売りとなって財を成し、銀行家としてはローマ教皇の管財人となってその財産の管理にあたって名声を高め、ルネサンス期のイタリアを実質支配した。
とりわけ「祖国の父」と称えられたコジモ・ディ・メディチ(老コジモ)は民衆からの支持があつく、巨大な財産を芸術の保護にあて、ルネサンス期を代表するパトロンとなった。
当時の銀行が現代の銀行と違うのは、当時の「銀行業」はほとんど「両替業」であり、銀行業務の中心は両替と為替業務だったことだ。
銀行があげる利益の種類は、おもに二つあった。
ひとつは、遠隔地間の資金移動による手数料。もうひとつは、金貨と銀貨の両替による手数料。
たとえばある商人が商売でロンドンへ行く際、現金を持ち歩くのは危険なので、フィレンツェのメディチ銀行で作った金額の書かれた書状(為替手形)を持ってロンドンのメディチ銀行に行き、それを現地で現金に換える。
いまでいうコルレス銀行の役割を果たす仕組みを作ったのが、メディチ銀行だった。
また当時のフィレンツェは金本位制と銀本位制が併存しており、取引や換算は金貨で、実際の生活では銀貨が用いられていた。
金貨で商売をするのは大組合の特権であり、金貨と銀貨の交換レートは大組合によって決められたので、大組合に所属するエリートたちは財政政策で自分たちの利益を守っていた。
両替や為替業務を行うルネサンス期の銀行家のもっとも重要な顧客が教皇庁だったのは、教皇庁が十分の一税や聖職禄の納付など、ヨーロッパ中から金を集める必要があったからだ。
十分の一税では各国の外貨との両替が発生し、聖職禄では各司教区で生産される品をいったんイタリア商人に買ってもらい、その金額を為替で送り届ける必要があった。
そのため教皇庁には銀行家が不可欠で、教皇庁の銀行家の地位はきわめて重要であった。
ルネサンス期、メディチ家ものフィレンツェ商人同様多角経営をしていたが、規模の大小にかかわらず商売は教会の教義に束縛されていた。
教皇庁に融資をする際、「時間泥棒」をするわけにはいかず、高利で貸付をすることはできなかった。
その代わり、教皇に納めるさまざまな物品に利子分を上乗せして請求し、あるいは帳簿上に架空の為替取引を記載して、「時間泥棒」回避をした。
メディチ銀行の利益は、その三分の一が教皇庁の仕事からあがる利益だったといわれ、それは莫大な額であった。
その莫大な財が元となって、ルネサンス期、メディチ家ほど大聖堂などの建築や美術に金をつぎ込んだ者はいない。
それまでのキリスト教は、教義上、富をひけらかすことは悪とされていたが、その教義上の認識が、「よいお金の使い方をするのは悪ではない」と変化したのがルネサンス期だった。
大富豪となったフィレンツェ商人たちの蓄財に対する贖罪意識は、パトロネージ、すなわち芸術への援助に反映され、大商人や銀行家がパトロンとなって、花の都フィレンツェは文化的栄華を極めることになった。
聖書には「だれも二人の主人に仕えることはできない」という言葉がある。
現世利益を得る者は(神が与える永遠の)いのちを得ることはできないという意味である。
教会が“金かいのちか”と考えるのに対し、“金もいのちも”と考えたのがルネサンス期の商人で、歴史家のブラッカーがルネサンス期の芸術作品を「罪の意識の産物」と呼んだのは、金かいのちの二者択一を迫る教会にたいして、金を得た大商人もまた魂の救済を求めるという、複雑な倫理観が根底に流れていたからだ。
変質するカトリック
その倫理観が変化したのもコジモのころだった。
ルネサンス期にはメディチ家の後援もあってプラトン研究が盛んになったが、コジモは、プラトンの思想をベースにいくつかの思想を折衷総合して成立した新プラトン主義に傾倒し、ルネサンス期に復活させた。
プラトン思想の中核は「洞窟の比喩」で説明される「イデア論」で、不完全な現実の世界にたいして、完全で真実である世界をイデアといい、それは実存するというものだ。
またプラトンは、政治とは「正義」を実現することであり、善のイデアによって国民を導くことであるというエリート主義的政治観をもっていた。
新プラトン主義(ネオプラトニズム)は、プロティノスがプラトンの思想に、東方やエジプトの秘教的伝統をも摂取したのが特徴的な、神秘主義的傾向が強い思想である。
その中核は「一者」で、「一者」は無限で姿かたちがなく、人間には説明することができない一つのものであり、すべての存在の究極の原因である、というものだ。
絶え間ない流出があらゆる被造物を生み出す「一者」をプロティヌスは太陽にたとえ、自らをまったく減らすことなく、自らの外に向かって光を放つとした。
ルネサンス期の新プラトン主義によれば、人間の栄光は、芸術、文化、政治的業績に基づくとされ、ごく現実的、現世的な商業は必ずしも重視されなかった。
中世とルネサンス期に生きたコジモは、二つの世界を生きたといえ、そもそもルネサンスは、古代ギリシア・ローマ時代の文化を復興しようとする文化運動であった。
それはすなわち、中世の教会の教え、つまり、現世の知識に背を向け、自己実現の望みを捨て、信仰だけが救いの道だという教えに真っ向から反するものであり、銀行業の実務的で現実的な価値観とも相容れないものであった。
コジモが「プラトン・アカデミー」を設けてまで研究と復興を進め、ルネサンスを後押ししたギリシャ思想が、とりわけフィレンツェ商人の心をとらえたのは、プラトンの著作では知識の習得や文化的な成果を、人間の理想や神を敬うことと結びつけており、神が万物の創造主であり根源である「一者」だとすれば、現世で知識を得、美を愛し、それを実存させることができるプラトン的人間は、神の領域に近づくと考えられたからだった。
こうして新プラトン主義は、ルネサンス期の思想に深い影響を与え、人間の理想や現世での成果といった概念を持ち込んでキリスト教信仰に変化をもたらし、そのうえ商人の現実的・実務的価値観とも衝突しはじめたのだった。
■参考資料
石鍋真澄『フィレンツェの世紀 ルネサンス美術とパトロンの物語』平凡社、2013年
和田忠彦『イタリア文化55のキーワード』ミネルヴァ書房、2015年
岡崎文明『新プラトン主義と東洋思想: その比較研究の地平と方法論的反省』新プラトン主義研究 = Studia neoplatonica 6
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2024年 10月 10日
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