05.13

『マインド・コントロールの恐怖』と中国共産党式マインド・コントロールを用いる統一協会
個人が自己自身の決定を行うときの人格的統合性を切り崩そうとするシステム。その本質は、依存心と集団への順応を助長し、自律と個性を失わせることである。行動、思想、感情、情報をコントロールすることによって達成される。「洗脳」とは違い、あからさまな物理的虐待をともなわず、グループ内の強力な教え込み効果によって作用する。
これは、19歳のときに統一協会に入信し、27か月のあいだ、勧誘、募金、教え込み、政治キャンペーンなどの幅広い活動に携わりアメリカ統一協会の幹部の地位までのぼったが、自動車事故をきっかけに「脱洗脳」を受けて脱会してからは、破壊的カルトの犠牲になった何百人もの人を救出し、破壊的カルトについての啓蒙活動を行っているスティーヴン・ハッサンのマインド・コントロールについての説明である。
この本は、統一協会が用いているマインド・コントロールの方法や、信者などマインド・コントロールにかかっている人の特徴、マインド・コントロールから解かれる方法が書かれた本である。
けれど、ここに出てくるマインド・コントロールの手段を用いているのは統一協会ばかりではない。
たとえば「情報をコントロールすること」は、大手メディアが真実を伝えないことがそれに当たるし、大手メディアからのみ情報を得、その情報を鵜呑みにする人びとは、結果的に「グループ内の強力な教え込み」の効果が及んでいるような状態となる。
また、インターネットやSNSを検閲することは、大手メディアが真実を報道しない以上の情報コントロールとなるし、中国の「英雄侮辱罪」のように疑問をもつことを侮辱と受け取られて罰せられるようなことがあれば、ほとんどの人は罪責感と恐怖ゆえに、自身の行動や思想、感情を変えようとするだろう。
中国よりはまだソフトでも、明らかに不自然な操作は日本でも行われており、こうした統一協会に代表されるマインド・コントロールを行う「破壊的カルト」の特徴とは、以下の通りである。
非倫理的なマインド・コントロールのテクニックを悪用して、そのメンバーの権利と自由を侵害し、傷つけるグループのこと。主要なタイプとして、宗教カルト、政治カルト、心理療法・教育カルト(自己啓発セミナーなど)、商業カルト(ねずみ講式の販売組織など)がある。
ある民族に対して「再教育」という名の思想改造を行うことは、個人のアイデンティティを破壊して新しいアイデンティティに置き換えるというマインド・コントロールであり、非倫理的なマインド・コントロールによって他人の権利と自由を侵害して傷つけることを続けている中国共産党は、世界でもっとも大きな破壊的なカルトといえる。
また、中国共産党が世界で行っている浸透工作は、組織のトップを取り込んでその配下に影響を与えるというやり方をとっており、「破壊的カルト」が、いまや宗教や政治という特殊な世界だけではなく、教育やビジネスというごく身近な分野にさえ存在しているのなら、現在自分が所属しているグループのルールや規則、「常識」や「お作法」が、きれいな仮面をかぶったマインド・コントロールだということはじゅうぶんにあり得ることだ。
教育や自己啓発やビジネスという、一見善意と良心を基本に成り立っているように見える団体が、その実、そのグループ(や、そのグループの中のある特定の人物)への依存と順応を促し、結果的に所属する人の自律と個性を失わせているのなら、表面的な組織のジャンルや規模はどうあれやっていることは破壊活動で、その種の破壊活動が日本にだけは及ぶはずがなないと考えるなら、それはすでにマインド・コントロールが進んでいる証だ。
日本のキリスト教は左翼的だといわれ、本来のクリスチャンにはそれがどうにも不可解だそうだけれど、日本のキリスト教にわりと大きな影響を与えたのが統一協会なら、日本のキリスト教が左翼的なのは統一教会が左翼的だからだ。
そしてその統一協会は「布教」といって、左翼中の左翼・中国共産党式マインド・コントロールを用いている。
私がマインド・コントロールにかかっていたころ、私はそれがいったい何のことか、よくわからなかった。マインド・コントロールとは、どこかのじめじめした地下室で顔を電球に照らされて拷問されるようなことだと思っていた。もちろんそんなことは、統一教会の中にいるあいだ一度も私の身に起こらなかった。だから外の人々が私に向かってどなって、私のことを「洗脳されたロボット」呼ばわりするときはいつも、それはまさに予期していた迫害だと思った。それはますます、私をこのグループの人間なのだと感じさせた。
そのころ私は、マインド・コントロールという現象を理解するための枠組みをもっていなかった。強制的説得を受けるまで、私はそれが正確にどんなもので、どう使われているのか、教えてもらえなかった。私は統一教会のメンバーで、私たちは共産党を敵とみなしていたから、私は、中国共産党が一九五〇年代に反対者を転向させるために用いたテクニックというものに、強い興味を感じていた。それで、カウンセラーたちがR・J・リフトン博士の『思想改造と全体主義の心理学』という本を少し読んでみないかと言ったとき、私は逆らわなかった。この本は(統一協会反対運動が起こる前の)一九六一年に出版されていたので、私はリフトンのことを反文鮮明だと非難するわけにはいかなかった。
この本は、統一教会の中で私に何が起こったのかを理解するのにたいへん効果があった。リフトンは、中国共産党が実施していたマインド・コントロールの過程に八つの要素を認めていた。目的がどんなにすばらしくても、あるいはメンバーがどんなに魅力的でも、もしあるグループがリフトンの指摘する要素の八つをすべて使っているなら、そのグループはマインド・コントロールの環境として作用しているのだと、悟ることができた。つまり、(一)環境コントロール milieu control (二)密かな操作 mystical manipulation または仕組まれた自発性 planned spontaneity (三)純粋性の要求 demand for purity (四)告白の儀式 cilt of confession (五)聖なる科学 sacred science (六)特殊用語の詰め込み loading of the language (七)教義の優先 doctrine over person (八)存在権の分配 dispencing of existence である(もっと詳しい説明は付録①を参照)。
(中略)
破壊的なカルトから離脱した人々が直面する最大の問題は、たぶん人格の分裂ということである。それにはじゅうぶんな理由がある。彼らは何年ものあいだ、カルトから与えられた「人工的な」人格を身につけて生きてきたのである。カルトのマインド・コントロールについて語り定義する方法はいろいろあるが、私としては、それは個人の人格を分裂させるシステムだと理解するのがいちばんよいと信じる。人格とは、信仰、行動、思考過程、感情などの諸要素から成り立っており、それらが一定の型をなしているものである。家族、教育、友人関係、それからもっと重要なものとしてその人自身の自由な選択――これらによって形成されたその人本来の人格が、マインド・コントロールの影響下では別な人格に――多くの場合、すさまじい集団的圧力がなければ選びとらなかったような人格に、置き換えられてしまうのである。(p.103-105)
ナチス・ドイツが第二次世界大戦中計画した強制収容所作戦では、数百万人のユダヤ人が虐殺されたとされているが、そのとても正気とは思えない大量虐殺には、数百万人のユダヤ人を収容所に輸送する指揮責任者でありながら、自身を悪人ではなく「ただ命令に従っただけ」と言ったアドルフ・アイヒマンをはじめ、何千人という明らかに正常な人々が関わっていた。
「アイヒマン実験」のような権威者の指示に従ってしまう人間の心理実験が、第二次世界大戦後には何千も行われ、人間が個人や集団で影響を受けるその影響の受け方が研究されてきたが、人間が通常の真理ではぜたちに従わないと思うあきらかにおかしな命令にも従ってしまう場合、一貫して「行動修正のテクニック」「集団への迎合」「権威への服従」という三つの力が働いていることをミルグラムは証明した。
ミルグラムは権威への服従について、「服従の本質は、自分を他人の願望を成就する道具とみなすようになり、したがって自分の行動に自分が責任があると考えなくなってしまう、ということである」といっている。
そして、中国共産党式マインド・コントロールの八要素も、根本的には、「行動」「思想「感情」「情報」をコントロールすることで他人を「服従」させるもので、アイヒマンのような人格をつくりあげるものである。
行動修正のテクニックや権威への迎合と服従の威力を認識しないで、マインド・コントロールを理解しはじめたとは言えない。これははっきりしている。社会心理学からこういう洞察を基礎としてうけとめれば、私たちはマインド・コントロールの基本的構成要素を見分けられるようになる。私の見るところでは、マインド・コントロールは、「認知不協和理論」として知られるようになった理論の中で心理学者のリアン・フェスティンガーが説明している三つの構成要素の分析を使うと、だいたい理解できるようである。これらの構成要素とは、行動コントロール、思想コントロール、そして感情コントロールである。
それぞれの構成要素が、ほかのふたつに対して強い影響力を持つ。ひとつを変えると、ほかのふたつもそれにつられて変わる傾向がある。三つをすべて変えることに成功すれば、個人など吹き飛ばされてしまう。しかし私は、破壊的カルトを調査した経験から、これに情報コントロールというきわめて重要なもうひとつの構成要素をつけ加えている。ある人が受け取る情報をコントロールすれば、その人が自分で考える自由な能力を抑えられる。以上の要素を、私はマインド・コントロールの四つの構成要素と呼ぶ。これらは、マインド・コントロールの作用の仕方を理解するための参照点として役立だつ。(p.113-114)
フェスティンガーの「認知不協和理論」とは、つまり「ある人の行動を変えれば、その人の思想と感情も、不協和をできるだけ少なくしようとして変化する」ということで、「人間は自己の人生に秩序や意味を保つ必要があり、自分自身のイメージと価値観で行動しているんだと思う必要がある」ためにそのような変化が起こる。
どんな理由からでも人間は、自身の行動が変わると自己イメージと価値観もそれにつれて変わるため、破壊的カルトは、人々をコントロールするために、意図的に人々の内面に意図的に不協和を作りだす。
その不協和を作りだすためにカルトのリーダーがコントロールするのが、「行動」「思想「感情」「情報」の四つである。
①行動コントロール
行動コントロールとは、個々人の身体的世界のコントロールである。それは、彼の仕事、儀礼その他彼が行う行為のコントロールとともに、彼の環境――彼がどこに住むか、どんな衣類を着るか、何を食べるか、どのくらい眠るかなど――のコントロールを含む。
大部分のカルトがメンバーに対して非常に厳格なスケジュールを定めるのは、この行動コントロールをしたいからである。毎日相当量の時間が、カルトの儀礼と教え込みの活動に使われる。また典型的な場合、メンバーは達成すべき特定の目標や仕事を割り当てられ、こうして、自分の自由時間と行動を制限する結果となる。破壊的カルトの中では、メンバーはいつも何かすべきことがある。
(中略)
カルト内部の命令系統は、ふつう権威主義的で、リーダーから彼の側近を通じてサブリーダーへ、さらに平会員まで流れていく。よく統制されたこのような環境では、すべての行動は、報いられるか罰せられるかのどちらかである。だれかがよく行動すれば、みんなの前で上位者から賞賛を受け、ときには昇格ともいう褒美ももらえる。まずく行動すると、みんなの前でひとり名指しをうけて批判され、トイレ掃除とか、ほかのメンバーの靴磨きのような肉体労働をさせられるかもしれない。
罰のこのほかの形態には、「自発的」断食、水ごり、徹夜、労働による強制などがある。自己処罰に積極的に参加する人は、やがて自分がその罰に値するのだと信じるようになる。(p.116-117)
②思想コントロール
マインド・コントロールの第二の主要な構成要素である思想コントロールの内容は、メンバーに徹底的な教え込みをして、そのグループの教えと新しい言語体系を身につけさせ、また自分の心を「集中した」状態に保つため思考停止の技術を使えるようにすることである。良いメンバーであるためには、その人は自己自身の思考過程まで操作することを学ばなければならない。
全体主義的カルトでは、そのカルトのイデオロギーが「真理そのもの」、現実世界のただひとつの「地図」として、その人の身についてしまう。その教義(カルトのイデオロギー)は、入ってくる情報をフィルターにかける役をするだけでなく、その情報についてどう考えるべきかも規制する。教義はふつう絶対的で、すべてを「白対黒」に分ける。良いものはすべて、彼らの指導者とグループに体現している。悪いものはすべて外界にある。もっとも全体主義的なグループは、自分たちの教義は科学的に証明されていると主張する。その教義は、あらゆる問題と状況についてのあらゆる疑問に答えるものだと主張する。個々のメンバーは、自分で考える必要はない。教義が彼にかわって考えてくれるのだから。
(中略)
思想コントロールのもうひとつの重要な側面は、グループに批判的な情報はなんでも閉めだすようメンバーを訓練することである。その人のもつ典型的な防衛機構(それには正しい情報が必要である)を歪めて、あたらしいカルトの人格を以前の古い人格から防衛するのである。最初の防衛線を構成するのは、
否 認――「そんなことはまったく起こっていません」
合理化――「このことはじゅうぶんな理由があって起こっているんです」
正当化――「このことは起こるべきでるがゆえにおこっているんです」
願望的思考――「それは本当であってほしいと私は思うので、たぶんそれは実際にも本当なんだ」
などである。
もしカルトのメンバーに伝わった情報が、リーダーや教義やグループに対する攻撃だと見なされると、敵意の壁がそそり立つ。メンバーは、いかなる批判も信じないように。訓練されている。批判的な言葉は、「我々について、サタンが人々の心に入れた嘘だ」とか、「世界謀略組織が、その正体を我々に見破られていると知っているので、我々の信用を落とすために新聞等へ流している嘘なのだ」というふうに、前もって説明されてしまっている。逆説的だが、グループへの批判こそ、そのカルトの世界観が正しいことを裏づけるのである(「これで、外の世界が我々に敵対する悪魔であることが証明された」)。提供された情報は、適切には受け止められない。
(中略)
思想コントロールは、グループの教義と一致しないあらゆる感情を、効果的に遮断できる。それはまた、カルトのメンバーを従順な奴隷として働き続けさせるのに役だつ。いずれにしても、思想がコントロールされれば、感情と行動もまたコントロールされるのである。(p.119-121)
③感情コントロール
マインド・コントロールの第三部、感情コントロールは、人の感情の幅を、たくみな操作で狭くしようとするものである。人々をコントロールしておくのに必要案道具は、罪責間と恐怖感である。なかでも罪責間は、集団への順応と追従を作りだすための、単独ではいちばん重要な感情的手段である。
歴史的罪責間――たとえば合州国が広島に原爆を投下したという事実
人格的罪責間――たとえば「私は自分の潜在能力を生かしきれていない」といった考え
過去の行動に対する罪責間――たとえば「私は試験でカンニングをした」
社会的罪責間――たとえば「人々が餓死しようとしている」
破壊的カルトのリーダーたちは、これらすべてを悪用する。しかしカルトの大部分であるメンバーには、自分たちをコントロールするために罪責間と恐怖感が使われているのだとはわからない。彼らはいつも自己自身を責めるよう条件づけられているので、リーダーが彼らの「欠点」を指摘しても、感謝の気持ちで反応してしまう。
(中略)
恐怖感は、ふたつの仕方でカルトのメンバーを結束させるのに使われる。第一は、あなたを迫害する外部の敵を作りだすことである。あなたを投獄したり殺したりするFBI(連邦捜査局)、あなたを地獄へさらっていくサタン、あなたに電気ショックを与える精神科医、あなたを狙撃したり拷問したりする敵対セクトの武装メンバー、そしてもちろん、強制的説得者たち。第二は、リーダーに見つかり懲罰されるという恐怖感である。自分の仕事をよくやらないと何が起きるか、という恐怖感は、大きな効果がある。あるグループは、もしメンバーの献身がゆるむと、核による破壊などの大災害が起こると断言する。
(中略)
忠誠心と献身は、あらゆるかんじょうのうちでいちばん評価されるものである。メンバーは、部外者に対して以外は、消極的な感情を抱いたり表現したりすることは許されない。メンバーは決して、自分自身や自分に必要なことへ感情を向けず、いつもグループのことを考え、不平は絶対言わないようにと教わる。彼らは決してリーダーを批判してはいけない。かわりに自分自身を批判すべきである。
(中略)
過去の罪や過去の誤った態度を告白させることもまた、感情コントロールの強力なしかけである。もちろん、一度みんなの前で告白をしたら最後、あなたの過去の罪が本当の意味で許される――忘れてもらえる――ということは、まずめったにない。あなたが戦列から離れる瞬間、それがひきあいにだされて、あなたをふたたび従順にするために利用される。だから、自分はいまカルトの告白集会にいるのだと気づいた人はだれも、この警告を思いだしてほしい。あなたが言うことは、何であれすべて、あなたの不利に使われうるし、事実、使われるだろう。もしあなたがカルトを離脱しようものなら、このしかけは脅迫にまでエスカレートする。
(中略)
カルトのリーダーが、「メンバーは希望すればいつでも離脱する自由があります。ドアは開かれているのです」と世間に言うとき、彼らはメンバーが自由意志を持っており、留まるほうを選択しているだけだという印象を与える。だが実際には、外部の世界に恐怖症を感じるよう教え込まされているため、メンバーは本当の選択能力を持っていない可能性がある。自分が楽しくないからとか、何かほかのことをしたいからという単純な理由でグループからの離脱を選択する心理的可能性は、まずない。仕組まれた恐怖症が、そういう可能性を排除してしまうのだ。(p.121-124)
④情報コントロール
情報コントロールが、マインド・コントロールの最後の構成要素である。情報は、私たちの精神を適切に働き続けさせるための燃料である。健全な判断をするのに必要な情報をこばまれたら、だれも健全な判断はできなくなる。人々が破壊的カルトの罠に陥るのは、批判的情報にふれさせてもれないだけでなく、適切に働いて情報を処理するための内面的機構が(マインド・コントロールの結果)かけてしまうためである。このような情報コントロールは、劇的で圧倒的な力を持つ。
(中略)
情報コントロールはまた、あらゆる人間関係にわたって広がっている。リーダーや教義や組織に批判的なことは、おたがい同士いっさい話すことは許されない。メンバーはおたがいを監視して、不適当な言動はリーダーに報告しなければならない。新しい信者は、先輩のメンバーが付き添い役にいない所で、おたがいに会話を交わすことは許されない。いちばん重要なのは、元メンバーや批判者との接触を避けるようにと言われていることである。情報をいちばんたくさん提供できるような人々こそ、とりわけ避けなければならない人なのだ。あるグループは、メンバーの手紙や電話を検閲することさえする。
(中略)
破壊的な組織はまた、いろいろな次元の「真理」を持つことで情報をコントロールする。カルトのイデオロギーには「部外者」用の教義と「内部者」用の教義がある。部外者用の資料は、一般市民または新しい信者のための比較的穏健なものである。内部の教義は、その人がより深く入り込むにつれて、徐々に明らかにされていく。
たとえば統一教会はいつも、自分たちは反米ではなく親米、親民主主義、親家族であると公言していた。たしかに統一教会は、彼らがアメリカにとって最善だと思うこと――それはアメリカが文鮮明のもとに神聖政治となることである――を求めているという意味で、親米主義者だった。民主主義とは、統一教会に神政独裁制を創立する場所を与えるために神が設けたものであると彼らは信じている。彼らは、すべての人類の「真の」家族は文鮮明とその妻、そして彼の霊の子たちであると信じている点で、親家族主義者なのである。にもかかわらず、内部の教義は次のようなものであったし、今もそうである。アメリカは韓国よりも下位であり、韓国に仕えなければならない。民主主義は「神が次第に廃止なさろうとしている」愚かな制度である。「霊の」家族ではない「肉の」家族が、もし彼らのカルトに批判的な場合には、人々はその家族から切り離されなければならない。(p.125-126)
すべてのカルトが以上すべてのコントロールを使うわけではないが、一部当てはまらないからといってその団体がカルトでないということにも、一部当てはまるからといって即ちカルトであるということにもならない。
重要なのは、全体主義的環境では「人はドグマ(独善的教理)の真理を悟って、その真理に自分の経験を合わせなければならない」という教訓が身につくということであり、カルト団体では、実際の経験と「経験するはずだ」とされていることとのあいだで矛盾や葛藤を感じると、すぐに罪悪感と結びつけるということだ。
その罪悪感を利用してカルトは他人を操作し、独善的な「存在権の配分」を行い、比喩的な「命」だけでなく場合によってはほんとうに殺してしまう。
もしだれかが絶対手主義的あるいは全体主義的な真理観を持つと、彼にとっては、その光を見ていない人、つまりその真理を受け入れていない人は、ある意味で闇の中にいるのであり、悪と結合しており、汚れており、存在する権利を持たない。ここには「存在」対「無」という二分法が働いている。正当な存在を邪魔する者は押しのけられ、あるいは滅ぼさなければならない。存在する権利がない第二の部類に入れられた者は、心理的には内面の死滅または崩壊というすさまじい恐怖を経験する。しかし逆に受け入れられた場合には、自己をエリートの仲間と感じる大きな満足感がある。もっと悪質な条件のもとでは、存在権の配分あるいは存在する権利の不在は、文字通りのこととなる。(p.377)
つまり、「ここにしか救いがない」という教義や、いまだにその教義と出会えていない人または一度は話を聞きはしたが深入りしなかった人、あるいは深入りするも指導者の怒りに触れて追い出された人などは、「サタンの支配下」にある人であり、「罪にまみれ」「頭が悪く」「価値がない」のだから、「救いを失った地獄の苦しみの果てに滅ぶ」、というのが、典型的な破壊カルトの理論なのである。
これは宗教にかぎらず、表現を変えて政治や教育やビジネスの分野で用いられており、これに似たことをいう団体は、指導者の自覚や告白の有無を問わず、統一協会や中国共産党からつよく影響を受けていることは間違いない。
場合によっては下部組織といえるほど有害で、きっちり撲滅しなければならないが、この「存在権の配分」=「存在する権利の不在」を人間が決めるという非道が、受け手の素直さを逆手に取って利用されて行われているのなら、わたしたちが社会生活を送るうえで行われている労働力や権利や金品の搾取は、カルト宗教と同じかそれ以上にひどいものなのかもしれない。
なぜなら、すくなくとも新型コロナウィルスの流行以降、移動は制限され、営業や活動は自粛を求められるという「行動コントロール」がされている。
「感染者」と「非感染者」、「マスクをつける人」と「マスクをつけない人」、「自粛する人」と「自粛しない人」のように、すべてが「白対黒」に分けられて「思想コントロール」がなされ、「密」「ソーシャルディスタンス」「ウィズコロナ」などの新しい言語体系を身につけさせられている。
これまでどおりの活動は感染者を増やす、という罪責感や恐怖感から「感情コントロール」がなされ、なにより、新型コロナウィルスは自然発生したもので、中国が感染者を抑え込んでいるという「情報コントロール」がずっとなされていることは、まるで日本が巨大なマインド・コントロールの実験場にされているかのうようである。
その日本人を対象にした実験は、でもコロナ禍よりもうんと以前から行われていたであろうことは、エリート官僚や公務員だけでなく、民間においてもだれからも文句をいわれないように無難に、自分で物事を考えずただ上司の命令に従うだけのアイヒマン的人間が増えたことからも想像がつく。
希望は、でもカルトのマインド・コントロールは解くことが可能だということだ。
ハッサンは、マインド・コントロールを解くもっとも基礎的なことに以下の3点をあげている。
第一の鍵 親密な関係と信頼感をきずく。
第二の鍵 目標重視のコミュニケーションをする。
第三の鍵 人格のモデルを作りあげる。
その後、よりよい結果になるために以下のステップを踏んでいるようだ。
第四の鍵 カルト以前の人格に触れる
第五の鍵 現実世界をいろいろな角度から眺めさせる
第六の鍵 間接的に情報を与えて、思考停止の作用をさける。
第七の鍵 カルトの外でのしあわせな未来を思い描かせて、恐怖の教え込みを解く。
第八の鍵 マインド・コントロールとは何か、また破壊的カルトの特徴とは何かを具体的に説明してやる。
カルト化しつつある日本で、それでもよりよく生きようと願うなら、以上のマインド・コントロールの解き方はその大きなヒントとなるはずだ。
その第一の鍵として挙げている「親密な関係と信頼感をきずく」というのは、友人同士でも叶えることができるが、それと同じくらい恋人や夫婦においても叶え得ることだ。
興味深いことに、「原罪」を理由に恋人や夫婦関係になることを遠ざけさせているのが統一協会で、もっとも重要な教義にしてまで世の中に仲のいい恋人や夫婦が増えることを止めたがるのは、そうなるほうがカルトにとって都合がいいからだ。
マインド・コントロールを解くためには、だからハッサンのこの第一の鍵が重要で、つまり、友人や恋人や夫婦が親しくしてやりたいことをみつけ、その目標に向かって努力し、ときにけんかや諍いがあっても仲直りをし、いっそう信頼と親密さを増して共に生きていく、ということが、彼らの罠にはまらないいちばんの武器になる。
いまの日本の社会では、受験や就職、長時間労働やおかしな「こうあるべき」という幻想により、心を開ける友人ができにくかったり疎遠になってしまったりして、だれかを信頼したり親密になることが難しくなっているが、そういう疎遠な人間同士の環境も、偶然にできあがったものではない。
そういう中で、自分を愛しているといってくれる友人や配偶者と出会えることは、奇跡といっていいことであり、宝物で、そういう人と過ごせる時間こそ神様からの贈り物だと思える。
もし、これを読んでくれている人の中に、自分がかつてマインド・コントロールを受けていた自覚があり、解かれたいと願っているけれど不安で、いまだに自己批判をしてしまうような人がいても、諦めないでほしいと思う。
うまくいえないけれど、諦めないでほしいと思う。
■参考図書
スティーヴンハッサン著・浅見定雄訳『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版、1993年
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。