2020
03.29

『儒教 怨念と復習の宗教』と、みじめな孔子の復讐心による詐欺師的人生

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新型コロナウィルスの感染は、オリンピックが延期になり中止を免れたとたん、東京都で多数の感染者が現れるようになった。

発生源の中国・武漢では、5日連続で新たな感染者はいないと発表している一方、移動制限を解かれた中国湖北省の市民の入境を拒む江西省で、両省の警察が衝突を起こしている。

起きていることから想像すれば、東京都はオリンピックのためにその数を隠ぺいしていたのだろうし、湖北省でも感染は引き続き増大しているのだろう。

 

世界的に感染者が増えつづけるなかで、中国だけが感染者がゼロだというのは、むしろそのほうが不自然でほとんど非現実的で、子どもの嘘のようなその場しのぎと思える。

しかし中国は、その不自然で非現実的な子どものようなその場しのぎの嘘をいけしゃあしゃあとつくのである。

間違いを犯しても悪びれない、むしろその罪を他者になすりつけ、自分だけは生き延びてさらなる悪事を拡大する。

それは、中国の思想の源である儒教が、数千年単位で壮大な嘘をついてきたゆえになせる業である。

 

『儒教 怨念と復習の宗教』によると、儒教とは、春秋時代の思想家である孔子が、卑賎の生まれながら三大王朝(夏・殷・周)の礼儀を極めたと自称し、自分で自分を聖人化し、自身の王朝をつくろうとした野望と虚構の卑屈な教えだという。

 

 孔子は全盛時代の周の文化・礼制を復元し、それを継承し発展させるべく、魯に新王朝の樹立を願った。だがその実態は、古代の復興に名を借りた創作であり、その意味でこれは、一種のルネッサンス運動だと言える。

また孔子は、自分が進めるルネッサンス運動こそが、真に上天の意志に叶う事業であり、上天はその偉大な使命を、ただ一人自分に与えたとする信仰を抱いた。その意味でこれは、伝統的な上天信仰の下に開始された、一種の宗教改革運動だとも言える。

孔子はこのような使命を果たすべく、上天よりカリスマを授けられた。儒教は宗教であるか否か、宗教だとすれば、それはいかなる宗教であるのか。儒教とは何かを考えるとき、孔子が自ら開示したカリスマ的性格を、我々は深く記憶しなければならない。

孔子は、特殊な例学的知識と偉大な徳を上天より授けられ、わが身の中に独占しているため、常に上天の加護の下にあると述べて、自己をカリスマ、上天より聖賜された神秘的能力を備える、不死身の存在として門人に示した。彼はこの奇怪な自負心のゆえに、為政に飽くなき執念を燃やし続けた。(p.50-51)

 

その孔子教団では、仁の実践が異常な執念で行われていた。

仁とは儒教で説く5つの徳目のひとつで、「人を思いやること」であり、孔子は仁をもって最高の道徳であるとしていた。

数日部屋に引きこもってでてこない弟子が、仁の実践をできず、孔子の言葉も頭から離れず、忘れることもできずにやつれ切っている様子が『君子為礼』に残されているが、孔子教団が仁の体現に熱中したのは、そうすることで新王朝を樹立することができると信じていたからだという。

 

 ここで想起すべきは「馬王堆漢墓」から出土した『五行』の経18で、仁→義→礼→智→聖と進む天道の階梯を修得し終えた文王が、「徳有れば則ち国家興る。文王の見わるるや此の如し。詩に曰く、「文王上に在り。於天に昭わる」とは、此の謂なり」と、殷に代わって周王朝を興起させたとされていた点である。すなわち文王は仁を起点に修養をやり遂げ、上天にその資格を認められて受命し、新たな王朝を創建したのである。

(中略)

文王はいまだ殷王朝が存続中に、新王朝樹立の志を抱いて上天より受命した。この事例は、周王朝がいまだ存続中に「吾は其れ東周を為さんか」(陽化篇)と、孔子王朝樹立の野望を抱き、「五十にして天命を知る」(為政篇)と勝手に上天より受命したとの誇大妄想に取り憑かれた孔子にとっては、絶好の手本となる。孔子がやたらに文王を賞賛するのは、文王と自分を重ね合わせていたからに他ならない。(p.58-59)

 

儒教でいうところの仁は、キリスト教でいうところ愛で、教理の最も根幹となることを実践しろと教祖が門人にしつこくいうその目的は、教祖を中心とした新樹立である。

孔子教団的には、その門人に仁を教え諭す孔子こそが最高の仁の実践者であるということになり、衰える現王朝に代わる新王朝を創建する資格を持つ聖人であるということになるが、儒教の根幹をなす仁の実践は、天下簒奪を狙う謀反人の歪んだ動機から発せられたものなのである。

 

 儒教とは、一介の匹夫にすぎぬ孔子が、実は孔子王朝を創始すべき無冠の王者(素王)であったと信じ、『春秋経』をはじめとする孔子の教えに従うならば、中国世界に太平の世が到来すると信ずる宗教である。したがって儒教は、何よりも孔子素王説なる虚構と欺瞞の上に成立する宗教である。当然儒家には、孔子素王説を国家権力に公認させ、その権威を借りて、世間の人々にこの虚構と欺瞞を信じ込ませる必要が生じてくる。(p.184)

 

孔子が、王の位はないが王の徳を備えている人物であるという虚構と欺瞞を信じ込ませるためにとった手段はなにか。

偽書である。

たとえば、孔子は無冠で終わったが、その門人は、王者としての教えが自らが著した書物の中に保存されていることを、孔子が王者であることの論拠にした。

あるいは、べつな人物が書いた書が、孔子の書に基づいて書かれていると偽って孔子の書を栢づけした。

あろうことか、架空の孔子王朝が存在したことにして、国土や人民を管轄する地位を得ていたことにした。

それら改ざんにつぐ改ざんが、卑賎な孔子を世界に誇る聖人に仕立て上げ、儒教の教えがすばらしいものとして現在にいたるというのである。

 

改ざんに改ざんを重ね、人物やものごとを事実以上のなにかであるかのように見せかける、ということに対する、この既視感。

いまの日本が、ようやく由々しき問題だと憤りはじめた事態は、中国では、2000年前から連綿と行われてきた手練手管であったのだが、ここに書かれている孔子的な人物に、わたしたちは思い当たるふしはないだろうか。

 

奇怪な自負心で上天より聖賜された神秘的能力を備える存在を自称し、ああるいは明言をしなくともそう振舞い、自身を中心とした王朝の創建を企む人物が。

つねに上天の加護の下にあると述べる、野望と虚構に満ちた妄執的な男が。

その人物は、日本にいながらそのあり方で、一体どの国のためになるなにをしようとしているのだろう。

 

■参考図書

浅野裕一『儒教 怨念と復讐の宗教』講談社、2017年(初出は『儒教ルサンチマンの宗教』平凡社、1999年

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