『そして安倍晋三は終わった』を書くにあたり、引用・参考にした文献・資料を紹介するコーナーのvol.6です。
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日本が「近代国家」に生まれ変わる発端となった明治維新は、教科書やテレビでいわれるような美しいものではなく、実体は吉田松陰らが松下村塾で共有した儒教的思想によるテロリズムだった。

当時掲げられた「尊王攘夷」は中華思想(天命思想)によるテロリズムを正当化するもので、「幕末の志士」たちが尊王の名のもと行った「天誅=天が誅する(殺す)」は、残虐な無差別殺人だった。

その残虐性を肯定しているのが中華思想の根幹となっている儒教だ。

儒教の祖・孔子は『論語』で、「殺身成仁」、つまり自分の命を犠牲にして世のため人のために尽くすことを説いている。

この「仁を成すため」の「殺身」は、「角を立てない」とか「場の空気を乱さない」とかいうことではなく人命そのもののことで、目的達成のためには生命をも顧みないといっている。

 

目的達成のための殺人を正当化する儒教では、さらに食人も肯定している。

『「食人文化」で読み解く中国人の正体』によると、飢饉から始まった食人は黄河から中国全土に広まった。

 

 転載が頻発し、飢饉が連年にわたれば国力は衰え、人心は乱れる。古い秩序は崩壊し、やがて新しい王朝が取って代わる。中国の歴代王朝は、同じような治乱興亡をくり返してきただろう。
 いいかえれば、王朝の交代期こそ社会全体を揺るがす天災や大飢饉が集中し、したがって「食人」もはびこるのである。
 漢が秦に取って代わったとき、社会は不安定のままだった。『漢書』によると、「漢が秦を継いださい、各地の有力諸侯も相次ぎ並び立った。行く末も定まらないなか、人民は生業を放棄し、大飢饉が起こった。米一石につき五千銭を要した。飢民は互いに殺しあって食べ、死者が続出した。高祖(劉邦)は、ついに人民が子女を売ることを許した」。
 また、「高祖二年(前二〇五)に関中が大飢饉に見舞われ、米一升につき万銭に達し、人相食む」(『漢書』)ありさまだった。『史記』によると、「漢のはじめごろ、山東地方は天災で数年にわたって作物が収穫できず、千里四方で人びとが互いに殺しあって人肉を食べた。天子はこれを憐み、江南の地を開拓した」という。
 洪武帝(前六~後五七)の後漢が王葬の新に取って代わろうとする時期、「食人」の気風は地皇三年(二二)から建武四年(二八)まで七年も続いた。『漢書』や『後漢書』『資治通鑑』などによると、「関東、人相食む」「北辺および青州・徐州の地、人相食む」「民衆が飢饉のために互いに啖食しあった。死者数十万、ために長安は廃墟と化し、城中に通行人がいなくなった」「三輔地方(首都圏)が大飢饉に見舞われ、人相食む。城郭はことごとく空になり、白骨は原野一面をおおい隠した」などと伝えている。
 後漢末期の興平元年(一九四)から建安二年(一九七)にも「共食い」は続いた。『後漢書』の興平元年の記述は、「この年、穀物一石が五十余万銭、豆・麦一石が二十万銭。人びとは互いに食いあい、白骨が積み重なった」という。
 この当時、帝室の威は地に落ち、各地に群雄が割拠して天下を狙っていた。だがその内実といえば、河北を支配していた袁紹の士卒はほとんど桑の実を常食としていた。江淮に拠っていた袁術の兵士たちは蛤で飢えを満たしていた。したがって、民衆の飢餓ははなはだしく、「食人」せざるをえない情況だった。つまり、「食人」の気風は、この後漢末期以降、黄河流域から淮河・長江流域へと拡大し、やがて全土へと波及したのである。

 

飢饉から始まった食人は、やがて忠誠心を披露するためになされることになる。

歴代の英傑といわれる劉備はしばしば食人とかかわり、庶民もまた妻や愛妾の肉をふるまって「英傑」たちをもてなした。

 

話は現代に移り、2019年末から中国・湖北省武漢市で原因不明の肺炎の発症例が増えていると報道されている。

年末12月31日時点で27人だった発症者は、年明け5日には59人に増えた。

うち7人は重症急性呼吸器症候群(SARS)と確診されたというが、その情報を流したネットユーザーを中国共産党はデマを流したとして拘束したという。

最初の発症例が確認されたのは華南海鮮市場で、この市場は表向きは海鮮市場の看板を掲げているが裏では各種野生動物の肉も売っているという。

サルも販売されているという。

 

サルまで食べるのが中国人だが、ヒトはサル目の一員であり、霊長類(=サル類)の一種にほかならない。

そして唐代には人肉市場までたったという中国の食人は、つい数十年前の文化大革命の時代にも行われていたことを忘れてはならない。

 

■引用・参考文献・資料
黄文雄『なぜ食べ続けてきたのか!?「食人文化」で読み解く中国人の正体』ヒカルランド、2013年