04.04

「ラビと村人」と人びとを無知のままにしておきたい独裁者
2020年2月、中国では、すべての宗教活動が国家の管理下に入るという法律「宗教団体管理弁法」が制定された。
以前から当局の許可なしには聖書の学習会もできず、許可を得るためには当局が認めた宗教指導者のもとで当局認定の聖書を使う必要があったことが、正式に法律で定められたものだ。
中国政府から宗教団体の公認を受けた教会は、牧師や神父が説教の中で共産党をたたえることや、政府幹部との会食に参加することが求められ、共産党に忠実な存在だということを示さなければならないという。
しかもその聖書には、なぜか孔子や習近平の言葉が引用されているという。
そのようなやり方で習近平は、社会主義体制の強化をはかり、自身があたらしい神になろうとしているわけだが、人間のことばを神のことばとし、神ではなく指導者に従わせるという、まさにカルト宗教を地で行っているのが中国共産党である。
孔子が編纂した儒教は、ユダヤ教を儒教と呼んだものである。
ユダヤ教とは、神はユダヤ人を選民としたことから始まったとする選民思想の宗教である。
儒教が源となっている中華思想とは、中国が世界の中心でありそれ以外は蛮族の住む地であると考える選民思想である。
つまり「天命を受けた世界の中心」を自称する中華思想とは、ユダヤ教の選民思想に起因するものである。
そのユダヤ教は、キリスト教で『旧約聖書』と呼ばれているものをほぼ同じ内容のものを聖典とし、『新約聖書』を否定するが、中国のキリスト教で用いられる聖書は、ユダヤ教を儒教として編纂した孔子のことばが引用されているという。
では、孔子のことばが引用された聖書を信じた人はどうなるか。
ユダヤ教的選民思想である中華思想による「天命を受けた世界の中心」を、キリスト教の教理だと信じるのである。
そして神ではなく指導者を神と崇めるのである。
儒教国である韓国発祥の統一教会では、教祖の文鮮明が再臨主を自称し神そのものではなく文鮮明という人間を神のごとく崇めさせていたそうだが、それは、宗教を操作して自身が神にならんとする習近平が用いているのとおなじ方法あり、すなわち統一教会が、直接的・間接的にかかわらず中国共産党の影響下にあることを示すものである。
現在の中国共産党は、まるで、『旧約聖書』にでてくる、一度は動物の王だったが、アダムの登場によりそれが長くは続かなかった蛇のようだ。
蛇が、自身が「えらばれし者」という優越意識がつよく、横柄で、強いものを盾に弱い者いじめをし、自身より優れて統治能力のある者が登場した現実を受けとめられずに嫉妬心と復讐心に燃えたぎり、その者を蹴落とそうとする一心で陰険な策略に生きるそのあり方は、現在の中国共産党を表現することばとしてそのまま当てはまる。
中国共産党が宗教を操作するのは、神を信じる人が増えることが党にとって都合が悪いからだ。
独裁を望む者にとって、多くの人が真実に目が開き知恵と知識を得ることは、自分が世界を支配することを危うくする脅威である。
中国共産党が宗教を操作することは、人びとを神に出会わせた気にさせて満足させ、じっさいは無知のままでいるよう、神のように善悪を知ることがないようにするためだ。
そしてこの方法は中国共産党のスパイの手により、世界中でくり広げられている。
しかし、人びとを無知のままでいさせるための操作がもたし得る、ほんとうの結果を、『ユダヤの民話 下』に収められている「ラビと村人」は示唆している。
ひとりの村人とその妻がコズニッツのツァディックであるラビのイスラエルのもとにやって来ると、子宝に恵まれるよう二人を祝福してくれと懇願した。
「まずわたしに五二クラウン金貨を払ってほしい」とラビは言った。
「ラビさん」と村人は言った。「一〇クラウン金貨はお支払いいたしますが、それ以上は……」
村人が二〇クラウン金貨の支払いを申し出ても、金銭面では折り合わず、ラビは首をたてに振らなかった。ついに村人は堪忍袋の緒を切らして妻に言った。「さあ、行こう。神はラビさんなんかなしで子が授かるようにわたしたちを助けてくださる。」
「それこそはわたしが聞きたかった言葉だ!」とラビのイスラエルは言った。
それから一年後、女は男子を産んだ。(P.219)
世の中に、納得のいかないことは山ほどある。
わたしも以前には、こんなふうに政治や宗教のことを調べて書くようになるとは思わなかった。
でも納得のいかないことに納得したふりはできず、そして納得のいかないことごとは、出来事としてはばらばらでも、なぜかいつも既視感があった。
そうしているうちに中華思想が日本のおかしさの一因を担っていることを発見し、『そして安倍晋三は終わった-「天命を受けた世界の中心」を自称し暴走する中国と一党独裁安倍政権の危険な類似点-』はできあがった。
自分でも想像だにしなかったこれを書きあげたたことで、つぎに書きたいことがみつかった。
そしてわたしにとって、書きたいことがあるというのはもっとも幸せな状態だ。
もっとも幸せな状態にたどり着くために通過する必要のあった経験だと思うと、納得のいかないことごとが溢れる世の中で、幸せを求めることを諦めてはぜったいにいけない。
世の中の納得のいかないことごとは、この金をせびるラビのようなものだ。
この世を生き、幸せを求める人はこの村人のようなもので、だから、いつまでも無知のままでいつづけはしない。
■参考図書
ビンハス・サデー編 秦剛平訳『ユダヤの民話 下』青土社、1997年
リサ マリクラ『そして安倍晋三は終わった-「天命を受けた世界の中心」を自称し暴走する中国と一党独裁安倍政権の危険な類似点-』デザインエッグ社、2020年
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