04.05

『ユダヤ人、世界と貨幣 一神教と経済の4000年史』と社会主義国たるエデンの園
新型コロナウィルスの感染が世界中に拡大したことは、わたしたちの生活にわりと長く続く変化をもたらしたことだった。
これまで当たり前だと思っていたことが、当たり前にできなくなった。
そのひとつが外出で、その延長線上にあるのが旅だ。
日本では、海外からの入国者に対し、入国後2週間の待機と公共の利用の自粛を要請している。
強制力も罰則ない要請を、発生直後から情報を隠ぺいして感染拡大の抑制に協力してこなかった人びとが守るとは思えないが、今後も武漢コロナウィルスをコントロールできないなら、旅のあり方は確実に変わっていく。
つまり旅人は、自由をたのしむ人ではなく厄介ごとをもち込むかもしれない警戒すべき人たちになるし、旅そのものが、希望に満ちたあたらしい世界への一歩ではなく、事情があってせざるを得ない移動となる。
ユダヤ教は旅とともに始まる、と、ジャック・アタリは『ユダヤ人、世界と貨幣 一神教と経済の4000年史』でいっている。
ユダヤ教は、旅とともに始まる。そして、すべての事物の意味が、しばしば言葉の意味の背後に隠れているように、ヘブライ人のアイデンティティとは、まさに旅を意味するその生活の中に明らかにされている。はるか昔の先祖、ノアの孫の一人、アブラハムの祖父の一人は、その名をエヴェルという。この言葉を翻訳すると〈ノマード〉〈動く人〉、さらには〈交換する人〉となる。このエヴェルは、少し後にイヴリ、すなわち〈ヘブライ〉となる。これらの人々の運命は、その名前の文字、その歴史の生成的コードがあたかも初めから記されていたかのようである。ヘブライ人は、旅をし、交換し、コミュニケーションし、拡散しなければならない。したがってまた貿易もしなければならない。
われわれは、この旅というテーマを、この移行する人々のオリジナルな神話の中に再発見する。ユダヤ人の創始者は外からやって来る。彼らの最初の神は、旅人を守り、コミュニケーションと交換、平和と信頼の条件を支配する。そして、ちょっとばかり話を混乱させれば、この神は一般的にいえば泥棒の神でもある――。(P.25)
その神が創ったアダムとエバは、おなじく神が創った蛇にそそのかされて神に禁じられていた「命の木の実」を食べ、それを罪とされてエデンの園を追われることになった。
その「命の木の実」を食べて知るようになった善悪とは、「道徳的無垢」であると同書はいっている。
イシュ〔男性の意〕あるいはアダム〔アダマ―土の転意でヒト〕という最初の人類は、まずエデンの園で暮らしていた。そこにはあらゆるものが豊富にあり、この庭の世話以外に労働らしい労働もない、欲望もない、敢然無垢な場所であった。[「創世記」二章8節]。エデンの園は彼の所有ではない。最初は一人で、やがて伴侶ができるが、幸せに暮らすために、何も所有する必要がない世界であった。最初の欲求は、性的秩序であり[性的欲求は四章1節「さて、アダムは妻エバを知った」とは、エデンの園から追い出されたあと。その前に、「創世記」三章6節「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」とある]、最初の拒否[「創世記」二章20節「自分に助ける者は見つけることができなかった」は孤独である。食べ物に関するたった二つの禁止条項[「創世記」二章17節「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」が最初の禁止条項の一つ。「命の木」は二章9節初出。禁止は三章22節]が彼には課せられる。一つは、知識の木の実を食べてはいけないということ。なぜなら、そうしないと、知識は自己意識を形成するから、つまり疑いをつくり上げるからである。[「人は我々(神)の一人のように、善悪を知る者となった」「創世記」三章22節]。二つ目は、命の木の実を食べてはいけないということ。なぜならそこでは、永遠の命が保証されているからだ。この二つとも神の特権である。経済に関して、人間の条件の最初の叙述[地を従えよ、という叙述が経済の労働行為]がある。すなわち、欲しないがゆえに、いかに無知であるか。自らの限られた条件について知ってはいけないのである。二つのタブーの一つ、たとえば禁じられている木の実を食べるとかいった罪を犯すやいなや、自己認識と欲望が生まれる。そうなると、彼は労働せずには、すべてがままならぬ希少性の世界に追放されるのだ。(p.26-27)
つまり、アダムとエバは、神に禁止されていたことをしたことで無知であったことを知ったのであり、神がアダムとエバに禁止事項を設けていた目的は、ふたりが無知のままでいさせるためだというのである。
中国共産党は、新型コロナウィルスについては命にかかわる情報を他国に与えず、国内向けにはインターネットを検閲して情報がいきわたらないようにしている。
その行いは、罪でもないことを罪に定め、人を無知のままでいさせようとするこの神の振る舞いそのもので、エデンの園とは、社会主義世界そのものだ。
そしてアダムとエバがエデンの園を追い出されたのち、ヘブライ人という民族が成立し、その子孫たちは世界をさすらうことになる。
この「さすらうこと」が、一神教、つまり、神が唯一の存在であることの「発見」をもたらしたのだという。
すべての発見は、必然的にノマード的さすらいの結果である。それは、けっして占有ではなく、思想、土地、知のすべてを自由にすることである。ヘブライ人は、最初の旅に出発してから、『聖書』に自らのアイデンティティを見いだす前に、すでに発見者であった。
最初の発見は、神の単一性の発見である。このような洞察はノマードでなければできなかった。旅をすることで、彼らは多くの神々を伝搬させた。伝搬させることで、結局種々の神々が一つの神に溶解していったのである。この神は彼らとともに至るところに広まる。この神はもはやある土地の神ではない。必然的に彼らが行く先々の神となってくる。彼らの神はすべての神でなければならないのである。
彼らが最初に参画した発見は、貨幣とその機能の発見である。小切手、手形、銀行券である。まさにノマード的、抽象的であり、普遍的な形態である貨幣は、物的領域において神の機能に等しい機能を果たす。多神論が唯一神に置き換えられたように、貨幣が物々交換に取って代わる。唯一清のように、貨幣は暴力、犠牲、復讐に取って代わる。神の思想と同様に、貨幣はノマード的抽象である。神と同様に、しかもすべてのほかの土地で、貨幣は全能、無謬、嫉妬、理解を超えたもの、集団生活の組織者として出現する。神と同様、貨幣は旅を簡単にする。貨幣は発見の手段である。貨幣は神に仕える手段であり、財をつくる手段である。二〇世紀銀行家銀行家ジーグムント・ワールブルクが言うように、貨幣は画家の絵筆と変わるところはない。だからユダヤ人の富への執拗さは、他人の要求を実現する手段にすぎないと考えればよい。しかし、永遠である神と決定的に違うのは、貨幣は不安定で、動きやすく、可逆的なものであるということである。それは神の一面の顔でもある。(p.599-600)
つまり「唯一絶対」とされる神は、ユダヤ人たちのつじつま合わせから生まれたものなのだ。
そしてこの神の一面の顔は、中国共産党および中国共産党的思想の人とおなじ一面の顔であることを忘れてはいけない。
知識や知恵が増せば、痛みも増す。
人は知れば知るほど、自分が知らないということを知る。
それが知識と知恵がもつ独特の痛みとかなしみで、たしかにそれは苦しく痛い。
でもそれが、努力と前進の原動力となるのだし、なにより知恵と知識は、あたらしい世界への入り口だ。
自立して生きることは苦労と絶望をともなうが、その先にあるあたらしい世界は、創造的で心がおどる。
険しい道も苦悩と絶え間ない前進も、それらすべてがえらびとった人の血肉になる。
肉体をもって生まれてきた以上、生きるとはそういうことのはずで、そうできるように導かれていたと知ったとき、人は愛されていたことを知るはずだ。
でも神は最初の人をそう導かず、むしろそうさせまいと禁止した。
まるで、ほんとうは人を愛してなどいなかったように。
■参考図書
ジャック・アタリ著、的場昭弘訳『ユダヤ人、世界と貨幣 一神教と経済の4000年史』作品社、2015年
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。