2020
03.22

『小室直樹の中国原論』と法の解釈を変えるリヴァイアサン

BOOKS, 国際, 文化・歴史

 

 

「週刊文春」3月26日号掲載の、「森友自殺<財務省>職員遺書全文公開『すべて佐川局長の指示です』」は、何度読んでも胸がつまる思いがする。

いわゆる「森友問題」は、鑑定価格9億円余りの国有地が8億円も値引きされた根拠はないままだし、建設予定だった小学校の名誉校長には首相の妻が就任していたにもかかわらず、「私や妻が関係しているということになれば」と、無関係である前提で話す総理大臣はあまりにも現実を認識する力に乏しい。

「私や妻が関係しているということになれば総理大臣も国会議員も辞める」という発言の辻褄を合わせるように動き、法律をよく勉強しているはずなのに当然のように公文書の改ざんをする官僚は、犯罪者でなければ脳に障害があるようだし、その結果、不正行為を強いられた職員が亡くなるなど、「森友問題」で起こっていることは、原因と結果がどう考えてもおかしい。

「手記」を遺した赤木俊夫さんの自殺の原因が佐川氏のパワハラであると指摘されているにもかかわらず、「もう終わったことだ」と再調査しない財務省は国民とは相容れない価値観をもっていることがよくわかるが、一方で、「手記」からは赤木さんは、検察をひどく恐れていたことも伺える。

 

「ぼくは職場に復帰したら検察に呼ばれる。検察は恐ろしいところや。何を言っても思い通りの供述を取る。検察はもう近畿財務局が主導して改ざんをしたという絵を描いている。そのストーリーから逃げられない。僕がなにを言っても無理や。本省の指示なのに最終的には自分のせいにされる。僕は犯罪者や」(「週刊文春」3月26日号、p.29)

 

日本の検察については、カルロス・ゴーンが海外に逃亡した際も、日本の司法制度は有罪の推定に立ち、差別が蔓延し、基本的人権が無視されていると非難していた。

カルロス・ゴーンのいう「推定有罪」「差別」「基本的人権の無視」は、赤木さんのいう「検察はもう近畿財務局が主導して改ざんをしたという絵を描いている」「そのストーリーから逃げられない」「僕は犯罪者」そのものだ。

検察の強引さが大切な職員の自殺の一因であるなら、財務省は検察に物申さねばならないのではないか。

逃亡はあってはらないことだが、代理人が逃亡に理解を示すような発言をすることは逃亡以上にあってはならないことだ。

検察の強引さが、被告が逃亡し日本の法律で裁けなくした一因であるなら、日弁連は検察に物申さねばならないのではないか。

でも、財務省も日弁連もそれをしない。

 

なぜなら、日本の法治体制はいかにも中国的だからだ。

法律で国民の権利が守られないなら、日本の法治レベルは立派な法律はつくるが誰も守らない中国と同じということだが、中国では、法の解釈さえ官僚のさじ加減で決まるのだと『小室直樹の中国原論』はいっている。

 

 近代リベラル・デモクラシーの発祥地は英国。一六八八年の名誉革命、そして翌年の権利宣言では、高らかに歌いあげる。王は最高である。王はすべてでる。しかし王は法の下にあり、と。この法律とは人民を主権者から守るもの、というのが近代法の根本的な考え方なのだ。

近代法がイギリス、アメリカといった国々で進歩してきたのは、いくつかの革命を通してである。そして欧米諸国に定着した。ではそのテーマとは何かというと、一言で言えば、法律というのは政治権力から国民の権利を守るものである、ということ。近代法はそういう立場に立っている。清教徒革命(一六四二~一六六〇年)、名誉革命(一六八八年)、それからアメリカ独立宣言(一七七六年)、フランス革命(一七八九年)、これらに一貫して流れている精神は、法律とは権力に対する人民の抵抗であるという思想なのだ。人民が主権者から自分たちを守る楯、それが法律であると。

ところが、このような精神がまったく欠落しているのが法家の思想(法教)、中国の法律概念なのである。立法だとか、法の行使だとか、そういう点についてはとても進んでいるが、「法律とは政治権力から国民の権利を守るものである」という考え方がまるでない

考えてみれば、それも当然のことであろう。法家の思想において法律とは、統治のための方法なのだから、法律はつまり為政者、権力者のものなのである。

韓非子もはっきりと言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。この場合の「役人」というのは、いまでいう行政官僚のこと。

一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。

こうした考え方が法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律をかってに解釈していいということなのでもある。

現在、中国との商売で欧米や日本の企業が苦しんでいる理由は、ここに淵源する。法律をよく読んで、どうしてもこうとしか受け取れないといったところで、中国の役人に、「それは違う」と言われたら、それでおしまいなのだから。

(中略)前述したように、中国では法律というものが権利を守るための楯にならない。法律が役人(行政官僚)の腹一つでどうにでも解釈できるし、役人は勝手に法律を解釈してよろしい、という法家の思想の伝統があるからだ。そのうえ、中国では法は統治のための手段なのだから、統治のために都合が悪くなったら、そんな法律は廃止してしまってもいいということになるというわけである(p.206-208)

安倍晋三は、国そのものといえる憲法を、細部の微調整ではなくその本質的な部分を変えることに執着している。

その発想は、法の解釈を官僚が変え、その勝手な解釈がまかり通る世界に生きているからこそであり、憲法を本質的に変えたい理由は、現行憲法が統治に都合が悪くなったからである。

時代の流れに沿わない点の微調整はしかたがないとしても、自民党改憲草案で重視していることのひとつは、時代の流れとは無関係の「儒教的家族観」である。

「親や祖先を大切にしましょう」という言葉はもっともで、わざわざ憲法で定めるまでもなく当然のことだと日本人は考えるが、その実態は、15代20代先の親せきまで「利害関係」で結ばれるという、日本人の想像をはるかに超える義務を負うのが儒教的家族観である。

すなわち、結婚した相手の親せきという親せきを養わなければならず、よって会社は同族経営になり、経営者が中国人と結婚しようものなら、その会社の財は一滴残らず中国人に吸い取られるのである。

 

日本を滅ぼすのは、武器や軍の有無よりも、儒教的家族観を強いられることだ。

その儒教的家族観が皇室に強いられれば、皇室の富や財は中国に吸い取られる。

天皇になる人が中国とのパイプ役と結婚すれば、皇室は一瞬で中国と化す。

自民党改憲草案では天皇を元首としているが、中国化した天皇が元首となるなら、それはもはや日本ではなく中国だ。

 

解釈を変えたことから国そのものを変えてしまう。

自民党改憲草案は、日本を中国化するための怪物だ。

 

■参考図書

小室直樹『小室直樹の中国原論』徳間書店、1996年

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