2020
03.20

『文明の自殺 逃れられない中国の宿命』と「地上天国」を大言壮語する自慰的思想

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中国武漢発の新型コロナウィルスの感染が世界中に広がる中、中国でこれまで最も多くの感染者が出ている武漢を含む湖北省では、2日連続で新たな感染者は確認されなかったという。

しかしこれは武漢から感染か拡大した否定的なイメージを払拭し「世界団結のきっかけに」したい中国政府の政治宣伝であるという。

 

中国の歴史は戦乱の歴史である。

しかし一方で、かつてたしかに自己完結していたこともあった。

その文明はたしかに周辺に広がり、中国大陸に限らずおもに漢字文化圏の国々に非常に重要な影響を与えた。

日本の「天皇」も中国由来で、中国から法律を取り入れた日本は独自の発展を遂げ、小中華帝国となって繁栄した。

中華世界の四方に居住していた四夷からの朝貢があっても、それに頼る必要がないほど「ないものはない」はずだった中国は、その文化的優越感からプライドが高くなった。

他人や他民族を禽獣とみなし、自己中心・自国中心の人を人とも思わない態度をとり、いまとなっては「世界の覇権を争う」までになった。

その中国が、しかし『文明の自殺 逃れられない中国の宿命』を読めば、いかに得体のしれない、信じるにたらない脆い国であるかがよくわかる。

 

 一治一乱の歴史を繰り返してきた中国の人類最後のユートピア像は天下一家、四海兄弟である。つまり天下は多国よりも天下一国になることだけによって、世界平和は実現するとの考えだ。そしてその「一国」足りうるとされているのが、中国である。

このように中国の「大一統」思想は究極的なユートピア思想である。この天下一国主義にかかっては、世界が二〇〇ヵ国に分かれている現在の状況など、あくまで過渡期的現象にすぎないとする。目指されるのは中華世界だけの統一ではなくて、華族一体の統一世界の実現である。

中華帝国は二千年にわたって一治一乱の天下国家を築いてきたなか、モンゴル人、満州人の征服王朝による華夷世界の「大一統」も経験してきた。中国人だけでは統一は不可能だから、どうしても夷狄の力を借りた華夷一体が必要なのだ。

中国が近年まで叫んでいた「世界革命、人類解放」のスローガンはマルクス主義からくるものの、じっさいには中華思想に基づくものといえそうだ。儒教思想はマルクス主義と非常によく似ている。マルクス主義とは空想的ではなく、科学的に武装された儒教思想でもある。少なくともマルクス主義と儒教が思い描く「人類の楽園」とは地上のものであり、現世的なものである。決して天上のもの、来世のものではない。

中国、朝鮮、ベトナムなど東洋社会において社会主義革命が成功できたのは、それらが儒教文化圏に属していたからにほかならない。天下一国家主義を理想とする中国が「文明衝突」をする相手は、一民族・一国家を理想とする近代国民国家のほうである。

もっとも、ことに二十世紀以降、「中華振興」の気勢もあげてきたものの、いくら逆立ちしても「天下一国論」の理想主義は放棄せざるをえなかった。なぜなら列強が、そして国際社会がそのような非現実的なものを許さなかったからだ。

かつて、中国の文化人は、天下―世界の「天主」(キリスト教)、「天方」(イスラム教)、そして儒教を天下の三大宗教とし、そのなかでも儒教だけを至高にして至大の宗教とし、儒教による三教合一、至福千年の世界国家建設を試みたが、当然ながら幻想だけに終わっている。そして、「世界革命、人類解放」もただ勇ましい掛け声だけを残して消えてしまった。そして天下一国家主義の中国と一民族・一国家主義の「近代国民国家」の文明が衝突するなかで、中国は伝統的な天下一国家主義の理想を放棄し、国民国家という中国にとっては「文明の自殺」に等しい選択をせざるを得なくなっているのである。

従来の中国人にとっての「国家」とは、ほとんどが支配者一家の支配領域を指すものである。すなわち皇帝とその朝廷の官僚群、および帝室の家産を管理する政治機構である。「国破れて山河あり」の「国」とは、ただ帝室(宮廷)とその体制を指すにすぎなかったわけだ。

「国」の字源とは殷周時代の都市国家の象形文字であり、武力支配下の城郭のことを意味した。「国人」とは政治に参加し、他国との戦争のきに出陣する統治階級たりうる家とその人々である。だから「国」のことを「国家」といったのだ。

戦国、秦漢以降には、国家は帝国と帝室を中心とする政治運営において、官僚の果たす比重が大きくなった。国家の存亡と士大夫階級(官僚階級)の利害関係が一致することになったので、士大夫階級の利益を保護する機構が国家になった。国家はそこでしたいふによる庶民制圧の気候になった。したがって庶民の国家に対する関心は階級的利害関係とはおのずから違ってくる。庶民は国家からいかなる利益も得られず、たんなる搾取の対象でしかなかった。(p.141-143)

 


そもそも「中国」というのは、天下であって国家ではなかった。中華帝国の時代には、国家というのは、天子が統括していた郡国や諸侯や帝室一族の封国、あるいは周辺の夷狄を指すものである。歴代王朝は天下そのものである唯一の世界帝国だから、国名ではなかったのだ。最後の中華帝国であった清王朝が「大清帝国」との「国名」を設けたのは、十九世紀後半に国際社会に参入せざるを得なくなってからだ。

(中略)

しかし天下=世界ではない。天下観とは古代中国で成立したもので、東亜大陸に中華文明匹敵する新文明がまだ出現しなかった時代にあって、中華世界の士大夫階級が夢中になって天下を語るに終始した中華世界内だけに関するものである。だが資本主義が発展し、それが世界的規模で拡大して世界史を動かすようになると、中国人の伝統的天下・国家観、世界観など通用しなくなった。十九世紀末の清末に至ると、近代国家の国家観の影響は免れ得ず、中国の伝統的国家観も変わらざるを得なくなった。中国人はやむを得ず、天下=国家、生民=国民という実態とは異なった概念を創出し、文化の自衛を図ったのである。

このように中国人のいう国家が「文明空間」であるのか、「天下」なのか、あるいは支配体制の「王朝」であるのか、それとも生民集団の「生活空間」であるのかについて、彼らははっきりさせたいことはないのである。国民としての「中国人」の概念でさえはっきりさせることができないのだ。(p.145-146)

 

天下を統一して「地上の楽園」をつくると大言壮語してはいるものの、それがあの世ではなくこの地上に作られるということ以外に具体的なヴィジョンがないのは、中国そのものが名ばかりの国家であるからであり、目的は地上の楽園ではなく自らの保身であるからだ。

中国人は自慢話に「人類の90%以上の時代が中国人の時代だった」「中国経済は世界をリードする」というものがあるが、それもなんの根拠もない空想で、過去の盛世の栄光をひきずった幻想である。

そして政治的変動のたびに、近い将来、中国人の時代が到来し、中国人の覇業が成し遂げられるなどという話が流行するのは、中華思想にとりつかれた中国の指導者たちの速成思想により引き起こされているものである。

それはまるで政治的混乱に乗じ、人びとの不安につけこんで高額すぎる壺を売りつけるようなもので、それを先頭に立って叫ぶ「指導者」は、日本人にとっては馴染みがないが、政治的混乱のくり返しだった中国では定期的に登場するお決まり詐欺師のようなものだ。

 

黄文雄氏はいう。

「この速成思想は定期的な猩紅熱みたいなもので、傲慢を通り越して幼稚であり、滑稽そのものである。中華思想を一言で要約すれば、マスターベーション思想そのものだ」と。

まったくそのとおり、過去の栄光にすがり現実を見ず、自力で更生できるという自信を捨てきれないから、中国人に限らず中華思想の持ち主は何度過ちを犯しても、決して悔い改めない。

いつまでも妄想をくり返し、その被害を拡大し、最後には自滅する。

 

■参考図書

黄文雄『文明の自殺 逃れられない中国の宿命』集英社インターナショナル、2007年

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