2020
06.08

『宗像教授伝奇考』と消された歴史、歴史や漢字の発見を盗んで成り上がった「大国」

文化・歴史

蕨手刀というものがある。

古代日本の鉄製の刀の一種で、柄頭の形状が、蕨の巻いた形の曲線をしている刀である。

日本全国で300点弱出土しているが、その80%が北海道や東北地方からの出土であるため、蝦夷が好んで使っていたと考えられている。

蝦夷とは、古代日本の北陸・関東北部から北海道にかけて居住した人びとのことで、大和政権から異民族扱いをされていた。

大化の改新後は朝廷の征討によってしだいに北方に追われ、しばしば抵抗し、その蝦夷が好んで使っていた蕨手刀が、現在の日本刀の起源と考えられている。

 

蕨手刀の進化・発展

 

陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷に服従するようになったものを俘囚と呼ぶ。

陸奥国の俘因長・安倍頼時と、その子・貞任は、平安後期、前九年の役の厨川の戦いで、源義家に敗れて斬首されたことになっている。

しかし、その安倍貞任の墓とされるものが山口県山陽町にあり、山口県にはかつて「蝦夷前」という地名もあったという。

朝廷に服従するようになった俘囚は全国各地に強制移動させられ、そこで俘囚郷がつくられたが、北海道や東北以外から出土する蕨手刀は、その地に俘囚郷があったことを示している。

 

宗像教授伝奇考』は、「この作品はフィクションです」とおことわりをしているが、その論考は現実的である。

日本の鉄器文化は九州からはじまり、しだいに東へと広まったというのが定説だが、そのころの鉄剣は、直線的で両刃の、いわゆる直刀であった。

大和政権が東国の蝦夷征討に乗りだした際、しかしその直刀は、蝦夷のもつ片刃でやや角度をつけた蕨手刀に破れ去った。

その蕨手刀の利点が認められ、反りを加えた片刃の剣が改良されて日本刀の原型となっていくが、全国各地に俘囚郷が存在するのは、蝦夷の刀に注目した大和政権が、優れた鍛冶技術を持つ者たちを各地に移住させ、刀剣改良のために蝦夷を送り込んで俘囚としたためだと考えられる。

 

大和政権は、巨大な王権をもっていた。

しかし、6世紀頃より、政権を支えていた有力豪族である蘇我氏や物部氏、大伴氏などの対立が激しくなって動揺が続き、その一方で、朝鮮における権益も新羅に脅かされるようになったため、大和政権は体制の転換を迫られることになった。

そのなかで、蘇我氏と手を結んだ天皇家の聖徳太子が、中国に遣隋使を送ったり仏教を保護するなどして中央集権国家への転換をめざし、その路線は中大兄皇子によるクーデター乙巳の変より始まる大化の改新により進められ、7世紀には、中国の律令制を導入して天皇を頂点とした権力制度を成立させた。

つまり大和政権は、中国的天命思想と中華思想により蝦夷を異民族扱いし、自身より優れた鍛冶技術をもった者たちを取り込んで服従させたうえに、大和朝廷の最高位に君臨した中国由来の「天皇」の正統性を貫くために『古事記』や『日本書紀』を編纂したのである。

 

日本の正史とされる『古事記』や『日本書紀』は、天命思想と中華思想により政治的な意図をもって著されたものであるが、これら「記紀」がつくられる原因となったのが、「大化の改新」の第一段階である「乙巳の変」である。

乙巳の変で、中大兄皇子は、それまで朝廷を牛耳っていた蘇我氏の長だった蘇我入鹿を宮中にて暗殺する。

入鹿の死を知った父の蝦夷は、自宅に火を放って自害をはかったため、それまでにあった歴史書は焼失し、その後も戦乱が続いたのちに、天武天皇の代になってようやく歴史書をつくるよう命令が下される。

当時の皇位継承権は、現在とはちがって、天皇の息子よりも天皇の兄弟や配偶者の方が優先されていたが、天智天皇の兄・天武天皇の頃に宗旨替えをし、弟ではなく息子(大友皇子)を皇太子に推すようになっていた。

そのような事情もあって、「記紀」は天武天皇の正統性を主張するために書かれ、また、神話がまだ天地も定まらず、生き物もいない、混沌としたかたちのなかったところからはじまることで、天皇とは戦いで勝ち取る権力ではなく、古の神様から続く絶対的な権威がある、という認識を与えようとしたのである。

 

いかにも天命思想と中華思想があらわれた日本の正史『古事記』と『日本書紀』だが、これら「記紀」のなかで、とりわけ天皇家の日本列島支配の正当性を伝えているのが「国譲り」である。

天の国である高天原が、地上の国、すなわち日本列島の支配権を大国主から受けつぐ、というこの「国譲り」が、天孫降臨や神武東征にはじまる天皇支配の正当性に説得力を与えている。

 

天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまは、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)に豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を治めさせようと考えられ、建御雷神(たけみかずちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)に命じて、様子をうかがわせてみました。

二柱の神は、出雲の国稲佐(いなさ)の浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。

そしてこの国を治めている大国主神(おおくにぬしのかみ)に、この国を天神(あまつかみ)の御子に譲るかどうかを問いました。

大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。

大国主神には、事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)という二柱の子供がいましたが、そのうち建御名方神は、力じまんの神でなかなか納得しませんでした。

そこで建御雷神と力競べをすることにしました。ところがどうでしょう。

建御名方神が、建御雷神の手をとると、氷のようになり、剣の刃のようになりました。これはたまりません。建御名方神は、父である大国主神の命に従うことを約束しました。

その後、建御名方神は信濃国に移り、信濃国の国造りをしました。

さて、このことを大国主神に告げると、大国主神は自分が隠れ住む宮殿を、天神の住む宮殿のように造ることを願い、そこに移り住むことにしました。

こうして出雲の国は、天神の御子瓊々杵命(ににぎのみこと)に譲られたということです。(神社本庁より)

 

 

ところで、大和政権より高度な鍛冶技術をもっていた蝦夷であるが、一般的に、蝦夷とアイヌのちがいは、本州にいたアイヌが蝦夷で、北海道にのこった蝦夷がアイヌであるとされる。

アイヌは、アイヌ文字(北海道異体文字)という、漢字が伝来する以前に古代日本で使用されたと紹介された多様な文字(神代文字)をもっていたとされている。

一方、中国の西安郊外にある碑林には、漢字の発明者とされる蒼頡という人物が残した碑文がある。

漢字を発明したのが中国人ならば、この蒼頡碑文は中国の学者が読み解いていてよいはずであるが、いまだに中国では謎の碑文として未解読のままであるという。

しかも、その未解読の文字はアイヌ文字(北海道異体文字)とそっくりで、甲骨文字より古い文字で書かれたこの蒼頡碑文は、アイヌ文字と、おなじく神代文字とされるトヨクニ文字の混用文として読むと、古代の日本語として意味がとおるのだと太古、日本の王は世界を治めた! 神代文字が明かす消された歴史の謎ではいっている。

 

死後に富むを得

幸い 子々孫々まで

満たしめよ

とくれぐれ言われけむこと

たみたみ慎み思う(p.102)

 

アイヌ文字(北海道異体文字)

蒼頡碑文

 

つまり、漢字の発明者は中国人ではなく、日本人である可能性があるというのだ。

しかも、中国は漢字の発明ばかりでなく、国の成り立ちまでも日本から横取りした可能性があるという。

中国において、日本にとっての『古事記』や『日本書紀』に相当する「正史」のひとつに『史記』があり、中国の歴史の記録は『史記』に始まる。

この『史記』に基づいて、紀元前の中国には夏・殷・周の三王朝があったとされ、やがて秦という強大な王朝が台頭して中国全土を統一したということになっている。

秦による中国統一以前の歴史は、一般的には、紀元前770年ころから東周の時代が始まり、紀元前403年ころに諸侯の一つであった大国の晋が分裂し、紀元前5世紀からはじまる戦国時代から、斉・晋・楚などの覇王の戦いが激しくなり、戦国諸国を統一したのが秦の始皇帝である、と。

しかし、この斉による秦の始皇帝への「国譲り」が、日本神話のそれと驚くほど似ているという。

 

 

かいつまんで話すと、こうなる。

斉の最後の王である王建は、秦の始皇帝に国譲りをしている。一方、出雲神話のなかにもオオクニヌシがニニギノミコトに国譲りをしたという話がある。

そこに登場する大国主の祖父はサシクニヲホといい、母はサシクニワカヒメという。この二人の名前を北海道異体文字で表してみると、105ページの図10のようにそれぞれ、「敫」「君王后」という字になる。

もうお気づきだろう。斉の最後の王、王建の祖父と母は、オオクニヌシの祖父および母と、ピッタリ一致してしまうのだ。

ということは、出雲神話のサシクニヲホとサシクニワカヒメが、それぞれ斉の国の敫と君王后という人物にすり替えられた、ということではないだろうか。

そう思って、ほかにもいろいろ調べているうちに、それを裏づける証拠が次々と出てきた。

まず、それぞれの国譲りをした場所と、そのあと移った場所について、さきほどのようにして調べてみると、これまたピッタリ一致することが判明した。すなわち、日本神話のイナサノヲバマが斉の「荊」に、タギシノヲバマが「松柏」という字になるのである。

このことは何を意味しているのだろうか。これは、中国大陸を舞台とした出雲のかつての真実の歴史が、のちに漢字に書き改められ、中国の歴史にすり替えられてしまった、ということを意味していないか。

さらに、この頃(戦国時代)の貨幣を調べてみると、戦国諸侯が現在の中国大陸にあったなら、当然、それぞれ独自の貨幣をもっていたはずなのに、どれも斉の貨幣と同じものを使用していたことが判明している。しかもきみょうなことに、その貨幣にはすべて、たとえば「アマフユキヌ」のように、当時の出雲の王の名が神代文字で刻まれているのだ。

この事実からも、戦国時代の斉の正体は、日本神話でいままでその実在性が疑問視されてきた出雲の国だったことがよくわかるのである。が、決定的なのは次の事実だ。

出雲の神代文字で表し、それを組み合わせてみると、なんと“斉”という字になる。これをみれば、中国の歴史がすり替えられたことは一目瞭然である。どうやら中国においても、『史記』以前の記録のすり替えが行われていたことは間違いないようだ。

いってしまえば、漢の武帝が紀元前一〇八年頃、司馬遷に書かせた『史記』とは、とんでもないクワセモノということになる。

司馬遷は『史記』の執筆中、獄につながれていた。完成後には解放される約束であったにもかかわらず、まもなく殺されてしまった。

これはちょうど、『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼が、やはり『古事記』完成後に殺されたという事情とよく似ている。両者は偶然の一致とは思えない。日本の太古史と中国の古い歴史を抹殺しようとした勢力が、それぞれの背後にあったことは間違いない。(p.103-106)

出雲を神代文字で表し、それを組み合わせると「斉」という文字になる

「出雲」を神代文字にあてはめ組み合わせてみると「斉」の文字になるうえに、中国の戦国時代の貨幣には、神代文字にあてはめて読み解くと、当時の出雲の王の名前になる文字が刻まれているというのだ。

さらに、国譲りの場所とそのあと移動した場所は、神代文字にあてはめて読み解くと以下のようになる。

・国譲りの場所:出雲のイナサノヲバマ=斉の「荊」
・移動した場所:出雲のタギシノヲバマ=斉の「松柏」

 

『史記』では『論語』を用いて孔子の姿も描かれており、孔子は天命思想・中華思想の源である儒教の祖とされる人物である。

そして、『史記』でもっとも重要とされる「本紀」に書かれていることは、「天の意思を具体的にこの世界に実現する「天子」が代々帝位を継いできたこと」を明らかにするものである。

すなわちこれは天命思想であり、『史記』もまた、天皇が神の子孫であるとしてその正統性を主張した『古事記』や『日本書紀』ととてもよく似た思想で、とてもよく似た目的のために書かれたものである。

さらに、942年に編纂された遼(契丹)王家の史書である『契丹古伝』は、紀元前の中国大陸の主人公は、あとからやってきた漢民族ではなく、もともとそこに住んでいた日本人の先祖だったことや、秦漢帝国の成立よりはるか以前から日本人が世界各地で活躍していたことを記しているという。

つまり、『古事記』や『日本書紀』、『史記』などは、天命思想と中華思想により、日本の太古史や中国の古い歴史を抹殺し、当時の成り上がりの皇帝(天皇)がはるか昔から神から選ばれていたかのように見せかけるために、歴史を横取りして書かれた中国優位の宣伝書なのである。

 

現代において中国が行っている劣悪なさまざまは、紀元前においても行われていたことなのである。

中国は、その歴史において連綿と、他国の歴史や他者の技術を盗みとってわが物とするという、侵略と収奪をくり返して成り上がってきたのである。

それゆえ現代においても、中国共産党は他国のブランド品を自国で開発したことにしたり、最先端技術を盗むすなどして、他者の知的財産を我がものとして粋がった活動を続けている。

それは、一見きれいには見えるが実態はよく見るとハリボテであり、関われば関わるほど損をすることは感覚のある人ならよくわかる。

 

また、日本政府は先日、香港への国家安全法制の導入を巡り、中国を厳しく批判するアメリカやイギリスなどの共同声明参加を拒否したというが、権利の侵害にたいして見て見ぬふりをするのは、沈黙という共謀である。

中国が香港のみならず世界的に権利の侵害を続けるのは、国そのものが、歴史的侵略と収奪のうえに成り立っているからである。

その中国と関わりをもち続けることは、日本という国を歴史から抹消することに自ら加担しているのに等しいことである。

その中国の思想の源である天命思想・中華思想の人物と関わりをもち続けることは、自分という人間が生まれてこなかったことにすることに自ら加担しているのに等しいことである。

 

■参考図書

星野之宜『宗像教授伝奇考 第6集』潮出版社、2004年

高橋良典『太古、日本の王は世界を治めた!―神代文字が明かす消された歴史の謎』徳間書店、1994年

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。