2020
02.29

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』と緊急事態宣言じみた一斉休校

文化・歴史

 

 

借りていた本を返しに図書館にいくと、ドアに貼り紙がしてあった。

見ると、3月2日の月曜日から小中学生の入館を断る旨が書かれてあった。

それは、2月27日に安倍晋三が表明した、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため全国の小中高校に3月2日から春休みまでの臨時休校の要請を受けてのことだとわかったが、やるせなさはやがて忌々しさに変わった。

 

安倍晋三は27日の表明で、「子どもたちの健康・安全を第一に考え、多くの子どもたちや教員が日常的に長時間集まることによる感染リスクにあらかじめ備える観点から」だと述べたが、一方で最大の感染リスクの源である中国人の入国はいまだ一部地域からの入国者いがい禁止していない。

すべての中国人の入国を禁止することによる弊害があるのなら、どんな弊害かを説明し、そのうえで理解を求めればよい。

口では守るといっていながらその行動からは守る気が感じられず、そして守るために大切なことをほとんどなにも説明しないから、守ろうとしているのは国民の生活や生命・健康ではなく政治的に重要ななにかであるように感じる。

そして口では守るといいながら守らず、実際に傷つけたりするようなことをするのはDVの特徴である。

 

DVをする人の特徴は相手が黙っているとつけあがることにあり、DVから抜け出せない人の特徴に、する側もされる側も、暴力と愛の区別がつけられないということがある。

暴力と愛の区別をつけられない、あるいは意図的に暴力を愛と呼ぶゆえに現実を直視せず、逃避や諦観や妄想を、愛や信頼や正義にすり替え、物理的な、あるいは立場としてのちからが強い者が弱い者を傷めつづけることを正当化する。

「なぜ」の部分を隠しながら一斉休校を要請したのは、DV夫が「俺を愛しているならいちいち言葉にしなくても心情を察して俺のしてほしいことをするはずだ」といっているのに等しい。

3歳児のような主張をいい歳の大人が体を張って正当化するのがDVで、中華思想や天命思想は、国家による他国や国民へのDVを正当化する思想である。

 

日本国民は政府によるDVに遭っているようなものであるが、それに気づかない。

それは日本の法律や教育が、国民の役に立つためにつくられたのではないからだ。

明治政府がつくった六大法典(憲法・民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法)は、欧米列強から押し付けられた治外法権などの不平等を撤廃するために作られた政治的なツールであり、国民の生活を守るためにつくられたものではないからだ。

 

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』にはこうある。

 

教育は本来、社会科(socialization)の一種である。社会化とは、社会の規範と生活能力を人に内面化させるための方法である。社会化には多くのものがある。が、教育は、それらの中でも特に重要な方法の一つである。

教育とは、組織化された学習過程(ひとつの行動様式を変えること)としての社会化過程である。

手っ取り早く比喩的に言うと、教育とは、適切な社会生活を営めるようにする方法である。

これが、いわば「教育」の本来の目的であるが、日本における教育は、そうではなかった。教育の目的は、日本人に健全な社会生活を営ましめるにあるのではなく、列強に不平等条約を改正することを承認させるための政治上の手段となった明治における新教育システムの樹立は、右の目的のために行われた。

この意味で、法典編纂と同型である。

日本教育システムの本質を理解するうえでも、法典編纂過程への一瞥は不可欠である。鳥瞰を続けたい。不平等条約を撤廃させるために、ドイツ、フランスを手本にして、日本人の生活と何の関係もない西洋式法律を、無理やりに輸入したのである。こんな話が伝えられている。

司法卿(法務大臣)江藤新平は、いきなり仏人法律家ボアソナードを招いて、日本の民法典の編纂を依頼した。驚いたボアソナードが「日本の習慣も旧式(昔からのしきたり)も少しも知らないことボアソナードが何で日本民法典の編纂を!」とあきれて反論すると、江藤司法卿、少しも騒がず「なに、フランスの民法典をそのまま日本語に翻訳してくれればいいんだ」と答えたとか。

こんな神話が、広く流布された所以は何か。

法律(制定)の目的が、治外法権をはじめとする不平等条約の改正であったからである。これが国策であるから、制定する法律は、ドイツ、フランス、イギリスはじめ資本主義先進国が納得するものでありさえすればよい。これなら資本主義に成れて、裁判をまかせても大丈夫であると列強に思わせたらそれで充分だ。日本人の生活のために、役に立とうが立つまいが、いっこうにおかまいなし。こういうことであった。

(中略)

国民生活と無関係な法律を作ってしまった後遺症は、今も疼いているのではないか。明治、大正、昭和の昔は言わずもがな。それが何より証拠には、日本では現在でさえ、「法律的」というと非現実的だということの代名詞になっているのではないか。裁判は日常生活のためにはあまり役に立っていないし、紛争解決のためには、今でも、場合によっては法律よりもヤクザの方が役に立つと言われているほどではないか。(p.112-114)


現在の日本の法律と教育が、国民の生活のためではなく国としての対外的な名誉のために存在している以上、法律や教育の制度にまじめに従えば従うほど、努力目的と正反対の結果が生じる。

たくさん勉強をして東大に入り、官僚になって売国政策にその頭脳を消費される官僚がよい例だ。

個人の努力が報われないことは国家にとっての損失だが、政府が努力目的と正反対の結果を生じさせつづけることは国家の滅亡に直結する。

 

かねてより安倍晋三は、大日本帝国憲法の復活のような憲法改正に執着しているが、その理由に「外国から押し付けられた」ことを主張している。

「外国から押し付けられた」が日本の実態に合っていないということを意味するなら、同じ理由で変えるべきは憲法の前に法律である。

そして法律以前に変えなければならないのは、実態に合わない外国の法律を日本人に押し付けて「国民の生活などおかまいなし」と考える為政者たちの暴力的な考え方で、そのためには、権威者の言葉をを鵜呑みにして抗わないのが美徳であるという日本国民ひとりひとりの考え方が変わらならければならない。

 

■参考図書

小室直樹『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』クレスト社、1996年

 

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