2020
02.24

靴と夫

エッセイ

 

 きっちりと足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。(『ユルスナールの靴』より)

 

須賀敦子さんの本に出会ったのは大学生のときで、じぶんにぴったり合う靴という概念をもったのもこのときだ。

行きたいところ、行くべきところに行くのをあきらめることはネガティヴななにかなのだと知ったのもこのときで、当時、じぶんにぴったりの靴だけでなく、行きたいところ、行くべきところも持っていないことを悲観した。

ここにいたくはないと思いながらも、どこかに行くのをあきらめているわけでもなく、大学生のうちに47都道府県すべてに降り立つとかそんなことを企てたりしたけれど、望んでいたのはそういうことではなかった。

 

じぶんにぴったりと合う靴があれば行きたい場所もみつかるかと思い、オーダーメイドの靴をつくりにいったりした。

計測すると左右の足の大きさは0.5mmくらい違うことがわかり、身体の歪みが原因ですといわれた。

オーダーメイドの靴は大学生には高価だったので、身体の歪みが直れば既製品の靴でもぴったり合うようになるかと思ってカイロプラクティックに通った。

カイロプラクティックの先生によると、左右の足の大きさが違うのは左右の脚の長さが微妙に違うせいで、左右の脚の長さが微妙に違うのは、組む脚の上下、かばんをかける肩の左右が均等ではないからだとのことだった。

そう聞きはしても、普段の生活で組む脚の上下やかばんをかける肩を均等にするのは至難の業に思え、じぶんにぴったり合う靴をみつけることは至極困難に思え、すなわち行きたい場所、行くべき場所にいくのは不可能なことに思えた。

もう20年も前のことだ。

 

じぶんにぴったり合う靴とは夫のようなものだと思うようになったのは、夫と結婚したからだ。

新しいうちは靴ずれやきゅうくつな思いをするけれど、互いに慣れ、ちょうどよい空間が生まれる。

汚れにはまってしまい、もう二度と履けないと打ちひしがれても、手入れを終えさっぱりした佇まいを見ると、なんとわたしはいい靴を選んでいたのだろうと涙ながら驚く。

できるだけ長く快適に歩きつづけられるようにと願う。

 

夫は靴磨きが好きなのは偶然だが、夫とどこまでも歩いて、行きたい場所、行くべき場所ぜんぶに行くのだと思っている。

 

 

■参考図書

須賀敦子『ユルスナールの靴』河出文庫、1998年

 

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