2019
07.27

音とことば

エッセイ, ライフ

 

きれいな音楽は、心をつよくする。

がんばりなさい、とささやかれているような気になると、ほんとうにがんばれるし、がんばれば感動する。

むかしはもっとがんばり屋だったはずなのに、どうしてこんなに怠惰になってしまったのだろうと思った。

 

小学生の頃、担任の先生に渾身の詩で鼻をかまれたことは絶望的だった。

生きていてもたのしいことはないと思っていた。

10歳までも生きるのも億劫だと思っていたけれど、そのあとのクラス替えで愉快な友人たちと出会った。

それで、こんどはべつな書くことを憶えた。

頭の中にあるイメージを、ノートに描き落とすことに没頭した。

書けば読んでくれた友人がいた。

毎回熱心に、じっくりひとりで読んでくれた。

そのことがどれほど幸せなことか、あのとき考えもなしなかった。子どもだった。

 

受験勉強は、詩を鼻でかまれること以上の絶望だった。

大学に行かなければならないなら、書くことなどしていられないので、すべて捨てた。

書いたものを燃やしたりごみにだしたりして、未練を断ち切る必要があった。

勉強は筋トレみたいなものだと、あとになってわかった。

やればやった分だけ変化が見える、そのことはたしかにがんばる気にさせたが、筋肉をつけたあとのことを考えていなかった。

だから、合格を果たして精魂尽きた。

大学時代のことはほとんど記憶にないが、余りある時間をもてあましたから、また書くということをしたくなったのだと思う。

その後もいろいろあっても、やっぱり書くことに戻る。

 

渾身の詩で鼻こそかまれたけれど、そしてそれは子ども心にたしかに苦痛だったけれど、鼻をかまれたかなしみは、でも長い人生に及ぼす書くことの喜びまで奪えなかった。

その後もさんざん迷いはしても、必ず立ち返るのは、いちばん最初のあの書くことの喜びだ。

そうすると、鼻をかまれた苦痛も、その後さんざん迷ったことも、最初の書く喜びにたどり着くための準備。

そのことを、わたしはちっともわからずに生きてきたけれど、ほんとうはすべてわかっていたかのようにわたしは生かされてきたのだと、いまになってわかる。

書くことを心に決め、あれこれしているうちに、音楽に触れる。

音がことばに聞こえるのは、頭ではわかっていたことだ。

書かないできたあいだに読んできた本で、書いている人の書いていることがそんなふうにいっていた。

いいなあ、と思っていた。でもわたしには関係のないことだ、と。

 

だけれど、音はほんとうにことばに聞こえた。

聞こえたというより感じた、というよりあった。

がんばりなさい、ということばが、たしかにそこにあった。

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