08.11

風説の流布とインサイダー取引と有名ワイン4
ナポレオン・ボナパルトは、「戦に勝った時こそ飲む価値があり、負けた時には飲む必要がある」という言葉を残すほどシャンパーニュを愛飲したといいます。
戦地に赴くたびに大量のボトルを必要としたので、シャンパンハウスは軍属として遠征先に赴いていたといいます。
シャンパーニュが現在の地位を得る契機となったのが「ウィーン会議」で、ウィーン会議は「ワーテルローの戦い」で敗れたナポレオンの処置を定めるために開かれたものでした。
ナポレオンは、「ナポレオン戦争」と呼ばれるいくつもの戦争で指揮をとりました。
1796年のイタリア遠征をはじめ、トラファルガー沖の海戦、アウステルリッツの戦い、ワーテルローの戦いなどがあります。
当初は、とくにイギリスに対する自国防衛のための戦争でしたが、経済の市場拡大の要求とも結びつき、しだいに侵略戦争の色合いがつよくなっていきました。
イギリスを中心とする対仏大同盟軍と数度にわたって戦いをくりひろげましたが、1815年、ワーテルローの戦いでの敗戦とナポレオンの退位によって、終止符がうたれました。
そしてセント・ヘレナ島に流刑され、1821年に亡くなったことになっています。
軍事で独裁政権を樹立し、皇帝にまでのぼりつめたナポレオンですが、敗戦したワーテルローの戦いでは、以前のナポレオンでは考えられない判断を何度も下していたといいます。
それゆえ皇帝からも退位することになったのですが、なぜか処刑はされていません。
そればかりか、流刑の地セント・ヘレナ島ではずいぶん恵まれた生活を送っていたようです。
ワイン50本、カモ4羽、ブタの丸焼き、牛肉と子牛肉23キロ、マトンまたはポーク23キロ、パン31キロ、卵42個、牛乳15本、シチメンチョウ2羽、ガチョウ2羽、ハト12羽、ニワトリ9羽が日々、側近によって運び込まれていたという記録が残っています。
さらに食事のお供として大量のワイン、麦芽酒、ラム酒、コニャックなども取りそろえられ、屋敷には、側近のアンリガシアン・ベルトラン将軍とその家族、さらに「32人の中国人」を含むスタッフ多数が住んでいたといいます。
さらにナポレオンは、敵国だったイギリス皇太子に手紙を書いています。
「私はテミクレスのごとくイギリス国民の地に身を委ねます。私はイギリスの法律の保護のもとにわが身を寄せたい」
テミストクレスは紀元前490年ころのギリシャの政治家で、敵国のペルシャに寝返って厚遇を受けた人物です。
その人物に自身を重ね合わせているということは、ナポレオンはイギリスに寝返ったということです。
ナポレオンは、わざとワーテルローの戦いに負けたのです。
負けが最初から決まっていたワーテルローの戦いで、ロスチャイルド家三男のネイサンが「ナポレオン軍が勝利した」という事実とは反対の風説を流布させました。
その裏で大暴落した株を買い占めてインサイダー取引をし、一瞬のうちに資産を2500倍にしたのです。
それによりヨーロッパ中の王室や貴族、投資家が金を求めロスチャイルド家を頼り始め、さらに総資産を増加させたロスチャイルド家は世界経済にまで影響していくことになりました。
風説の流布とインサイダー取引を得意とする一族の拠点イギリスは、現在も世界最大のシャンパーニュの輸出先であり、ロンドンには世界最大のワイン教育機関WSETの本部があるのです。
■参考文献
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