08.08

とんだ勘違い
子どもの頃に憧れて、あるいは熱中してみたことで、でも続けられなくてやめたことがある。
そのとき、はとても熱中してそれをしたものだ。
けれど、ゆえあって続けなくなったことだ。
ゆえといってもかんたんで、大人になるにつれてしなければならなくなった勉強や仕事に、つかえる時間のほとんどすべてを占領されたからだ。
そのときは、でも自分でも納得してやめたことだ。
そうして、べつなことに熱心になったり、ならなかったり、ならなかったりしながら生きてきた。
社会というものは、人びとが自由な時間をできるだけもてないようにわざとつくられている。
そのことを知り、だからどう生きればよいのか、どのように生きなければならないのかがわかったあとで、子どもの頃にやめてしまったことをまた始めたいと思うようになった。
あのときやめずに続けておけばいまごろは、と思ったところで、しかしなにも始まらない。
そして厄介なことに、実際にやめたのは自分なのだ。
やめることが正しいことだと思ってやめ、やめたことが正しいことだと思って生き、やめずに続けたがっていた自分にそれはまちがっているといい聞かせてきたものだから、いざもう一度始めようと考えても、やめた自分の手前ばつが悪い。
むろん、そんなやりとりは取るに足らないことだ、とあとになってはっきりとわかることも、そうやってひとりもじもじしている時間がわたしはひどく長い。
そういうときに、夫に頼まれごとをされる。
その頼まれごとは、もう一度始めようかと思っていたことに近い種類のことで、でもやったことはない。やったことはないけれど興味がある。
わたしがそれができるようになると夫の仕事がはかどるというのだから、早速やってみる。
そして、やってみるとたのしい。
たのしいけれど思うように動かない。
だから、「え?」と、「なんで?」と、「意味わかんない」と、ひとりごちて眉間にしわをよせることもあるけれど、やれば慣れていくし、頭の中にあるものが目の前に現れる。
頭の中にあるものを目に見えるようにできることこそ、ずっとやりたかったことで、続けられなかったことだ。
もじもじして始められないでいたことだ。
種類はちがえど、ずっと諦めてきたことをいまできているよろこびったら!
と、思っていたら、夫に告白された。
じつは勘違いをしていたのだという。
わたしがそれをできるようにならなくとも、すでに自分ができる環境にあったことを発見したという。
つまり、最初からきちんと調べていれば最初からひとりで完結できたことだったけれど、なぜか調べられず、本気でそれができないと思い込んでいた。だからわたしに頼んだ。
ほえーといって驚いたが、その勘違いのおかげで、もじもじから抜けだした女がここにいる。
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