08.07
箱を開ける
ある日、玄関先に見慣れぬ箱があった。
非常食の小さな段ボール箱で、マジックで日付らしきものが書かれてあった。一見して我が家からでてきたものではないのがわかった。
夫とふたりで見つけ、お互いに憶えがなかったので、母がごみの日にだそうとして置いているものだと結論付けた。
捨てるものを入れるのにちょうどいい大きさの箱がたまたま非常食のそれで、スーパーかどこかでもらってきてそうしておいたのだろう、と。
ふつう、こういうときは中身を確認するのかもしれない。
けれど、わたしたちはそれをしなかった。
人が捨てようとしているものをわざわざ見るなんて悪趣味だ。
そう思ったし、玄関の壁と壁の角に箱の角をぴたりとくっつけて置いておくのは、扉を開けた勢いでつぶしてしまわないようにという配慮が感じられて、捨てると決めたものでさえ律義に扱う母らしさが思われて、そっとしておくのがもっとも親切だと思ったのだ。
捨てようとしているもの。捨てたつもりでいたもの。
家に入り、つめたいジュースをごくごくのんでも、そのことが頭の中を巡って落ち着かなかった。
捨てたつもりでいたこと、もう自分に影響しないと思っていたこと。
ついこのあいだ、ちっとも捨てられていなかったこと、いまだに影響していることを知ったばかりだった。
それは自分の問題で、自分ひとりでなんとかすることのはずだった。
だから自分で奥の方に追いやって、その手前にいくつもの必要なものを置いて、見ることも手に取ることもできないようにしていた。
それはもうないこととおなじだ。だから夫に話す必要もない。
そう思っていたけれど、「それ」があること、あることを話さないできたことを知った夫は、ひどく怒った。
夫が怒ったのは、「それ」があることそのことよりも、「それ」にたいするわたしの認識で、わたしが捨てたと思っていた「それ」は過去の記憶ではなく、わたしの未来だったということだ。
人が捨てたものをわざわざ見るなんて悪趣味だ。
そう思っていたけれど、わたしが捨てたものを夫が体当たりで取り戻してくれたことに、わたしは助けられた。
翌日、あの箱は玄関の中にあった。
蓋が開けられ、中にはたくさんの桃があった。玄関中に桃の香りがたちこめて、幸福な気持ちになった。
母から話を聞けば、それは母の捨てるものではなく、お隣さんが持ってきて置いておいたものだそうだ。
母も母で、見慣れぬ箱は夫が仕事でつかうものを置いておいたのだと思い、触れずにいたのだという。
お隣さんがさらに桃をもってきてくれたことで、ようやく箱の正体がわかった。
その箱のおかげで、わたしは夫に助けられてあるということが。
この地域は平和だということが。
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