2019
08.01

ぜいたくな夢

エッセイ, ライフ

 

暑いので、メロンがおいしい。

何度も噛みくだかなくとも、上あごと舌で押しつぶすとすぐさま果汁になってからだに沁みわたるるような果物は、いかにも果物を食べている気になってぜいたくだ。

わたしにとってのぜいたくな果物は概して夏の果物に多く、それはきっと、雪国で生まれ育ったことと関係していると思う。

 

ぜいたくな気持ちになったせいか、むかし見たぜいたくな夢を思いだした。

断片的で壮大で、いかにも夢らしい夢は見ている最中から気分がよく、何度も思いだして気分がよくなった。

でも夢は夢。そう思っていた。

けれど、夢は目標といいかえられるなら、落ち着かない。

夢が夢のままで終わらないなら、話はまったくべつだ。

そして、夢だと思っている「それ」と、「いま」がつながっていないとだれが言い切れるのだろうと考えると、言い切れる人などどこにもいないと思いいたる。

なぜなら他人の人生を決めることなどだれにもできないのだし、単純な事実として、なにごとも可能性はゼロではない。

ならば、なにか夢に見たことがあって、それがどれだけ壮大なことに見えたとしても、いまとつながっていないと言い切れるのは自分だけだ。そのことを諦めた自分だけ。

そして、人がなにかをしたいと思うとき、それはほんとうに自分の意思だけのはたらきかというと、決してそうではない。

 

冷蔵庫でよくひえた夏の果物が、口をひやし喉をひやし、食道をひやして胃に落ちるのは、夏の正しいはたらきだ。

起きてすぐに汗ばんでいるのを感じることは不快なことだが、そのおかげで夏の果物がぜいたくであることを感じられる。

それで、春、まだ肌寒いときに見た、いくつも並ぶトンネルみたいなビニールはメロンの苗を植えていたものだったことを思う。

同時に、メロンの栽培は手間がかかってたいへんだという話も。

実そのものはいくつもつくけれど、実際に実らせるのは一本のつるにつきひとつかふたつだけだそうだ。

でも、実がつるの根本に近すぎると小さく形が悪くなりがちで、つるの先だと大玉にはなるものの甘くになりにくいのだそうだ。

おいしい、と感じる背景にある、いくつもの準備と苦労と、それをいとわなかった人の意思。

だからこそ、そうやってできたメロンは、ひとりの人に夏の家のリビングでぜいたくを感じさせ、ひっそりと幸福にできるという事実。

 

ひそやかなぜいたくを感じたせいで、ぜいたくな夢を思いだし、夢と目標について考え直してしまった。

すっかり諦めていたことをもう一度目指すなど、それはとても勇気のいることで、こわいことだ。

でも、ほんとうに恐れるべきは、もっとほかのところにあるはずだ。

毎年あたりまえのようにしてきたことは、たぶんあたりまえのことではなかったし、おなじように、人の意思を動かしているのも、その当人だけのはたらきではない。

人の意思ではない、正しいはたらき。

そんなことを考えていたら、メロンは半玉なくなっていた。

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