2019
07.29

サーカス小屋

エッセイ, ライフ

 

 

掃除機をあたらしくした。

というより、もう一台、二階用に買った。

家に掃除機が二台だなんて、大きな家の人がすることみたいで自分には不釣り合い、あるいは、掃除のたびに一階からもってくるのを面倒だと思う怠惰がよくないのだと思っていた。

けれど、思い切って買ってよかった。

あたらしい掃除機は、自分を客観的に見る機会を与えてくれる。

 

まず、軽い。

スティック型で軽いので、シートを替えて使う電気式でないフロア用そうじ道具と変わらない気軽さで掃除をする気にさせる。

やる気になるというは大事なことだ。

仕事をしたり、作品を作ったりするとき、目に見える形にまで仕上げなければそれはやっていないと見なされて仕方がない。

だから、目に見える形にすることが大事なのだけれど、それは簡単にできることでもない。

たとえば筋トレは、やればやった分だけ変化としてあらわれる。

だけれど、ひたすらマシーンで黙々とトレーニングするだけでは、いくら目標の数値があったとしてもなかなか続かない。

途中、数値に変化がないときが必ずくると、頭ではわかっていても、変化がないときにべつな問題が起こってやる気を失い、続けられないようなことになれば元も子もない。

だから、目に見える形にまでできるかどうかの分かれ道は、結局のところ、まずやる気になるかどうかだ。そして、そのやる気が続くかどうか。

新しい掃除機は、それまでと変わらない気軽さで掃除が始められるのに、それまでとは比べものにならないくらいきれいにしてくれるということを、はっきりと見せてくれた。

これはとても大事なことだ。

 

なにより素晴らしいのが、吸われたごみが見えるところ。

吸っているそばから、手元の透明な収納所に集められたほこりがくるくると回っている様が見えるのは、まるで小さなサーカスを見ているみたいな気持ちになる。

そしてそれは、毎回、自分が騙されていたことに気づくことでもある。

いったんベッドの下に掃除機を滑らせただけで、手元の収納所では想像していた以上の量のほこりが回る。

床が白いことは、部屋を明るくする一方で、あるほこりをないかのように見せていることは、電気式でないフロア用掃除道具を使っていたときから実感していた。

そう思って掃除していたとき、ぎりぎりのところで逃れられていたほこりは、しかし、吸引力には抗えなかった。

掃除に吸引力が働かなかったあいだ、吸われることから免れていたほこりと一緒に眠っていたようなものだと思うと、複雑な気持ちになった。

吸われたほこりのあり様を可視化できるようになったことは、だから、まだ気づかないほこりと同居している単純な可能性を見つめることになったし、この視点をもつために、長く使っていた電気式でないフロア用掃除道具は壊されたのだと思う。

手元の収容所で回るほこりは、ずっと住人を騙していたことを知られ、もう騙せないことを知って、すっかりやる気を失っているようだった。

ただくるくると回り続ける、だれも来ないサーカス小屋の看板みたいに。

 

それにしても驚いたのは、一階でしか過ごさない犬の毛が、二階のいたるところにあったことだ。

まったく油断も隙もないものだ。

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