2019
07.26

頼るということ

エッセイ

 

頼ってくれればいいのに、といわれた。

むかし仕事をしていて、重いものを運んでいたとき。

いってくれれば僕が運んだのに、と、その人はいったが、わたしはなぜそんなことをいわれるのかわからなかった。

定期的に運ぶ必要があるもので、そのときはたまたまわたしが運ぶことになった。

重いとはいえ10kg程度の、距離にして10メートル程度のことで、たしかにもつことができない女性もいると思うが、わたしはもつことができたのだし、そもそも仕事なのだから、できる人がやればよいではないか。

そう考えていたものだから、頼ってくれればいいのに、といわれたとき、責められたのかと思った。

 

彼がいったことは、もちろん心からの親切心だ。

だから、そういわれて責められた気になるのは、あるいは、頼るべきはずのところで頼れないのは、わたしの中にある問題だ。

高校生の頃、体力測定というものがあったが、わたしが頼るべきところで頼れないのは、そのとき測った背筋の数値が野球部の男子数人より高かったことが関係するだろうか。

頼ってくれればいいのに、頼ってくれればいいのに、と、頭の中でくり返される言葉は、やがて、女らしくないんだから、と変換されてくり返されることになった。

 

べつなとき、プライベートでおなじことを友人にもいわれた。

旅先で、食事の支払いのときだった。

席で、運ばれてきたトレイに乗った紙を一瞥し、鞄を開けるわたしの手を止めて友人はいったのだ。

「ぼくが払いますよ。こういうときくらい、頼ってくださいよ」

こういうとき?

こういうときってどういうとき?

恋人同士ならわかった。でもわたしたちは、恋人ではなく友人だ。

他人の目にはどう見えていたか知らないが、他人の目に合わせてすることを変えるほどわたしたちは他人に興味がなかったし、それに、ただの友人ではなかった。

電話をかければ必ずでてくれて、何時間も話をしてくれた友人だ。

もう耐えられない、と思ったとき、出来事こそちがっても同じような電話を何度もかけたのに、嫌な声ひとつせず、わたしでさえまとまっていない話も、観察するようにしずかに聞いてくれた。

わたしがうまくいえない気持ちや意思や希望を、代わりに適切な言葉にしてくれた。

将来どちらも結婚したとしても一緒に旅をしようと、いい合ったその友人を、ずいぶん頼りにしていたつもりだったのに、友人は頼られているつもりはなかったのだ。

わたしは適切に頼らないことで友人を傷つけているのだろか。

そう思うとかなしかった。

その後も、こういうとき、や、頼るということがどういうことかよくわからないままだった。

でも友人はずっと友人でいてくれた。

そのことが、わたしにはなにより頼もしかった。

 

定期的に10kgのものを運ぶことも、友人と旅にでることもなくなったあとでわかったことは、あのときたしかに頼ることができたということだ。

頼ることと頼られることはべつで、頼られてくれることの安らかさと心づよさを、あのとき知ることができていたということ。

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