07.22

はながみ
小学校にあがってすぐの頃、退屈だった。
保育園が快適だったとはいえないが、それまで過ごしていた場所とはちがう場所に、かつ知らない人がたくさんいるところに、毎日長時間行かなければならないことに馴染めなかった。
その知らない人たちとおなじ方を向いてすわり、一斉におなじことをしなければならないことにはもっと馴染めなかった。
チャイムが鳴ったらどこからともなく大人が現れ、一段高いところに立ち、背中の緑色の板に白い棒で文字や図をかきながらべらべらとなにかを話し、チャイムが鳴ったらまた去っていった。
大人が去ると、子どもたちはだれかの席に集まったり、廊下にでたりして、笑った。
だれの席にも集まらず、廊下にもでず、笑いもしなかったわたしは、チャイムとチャイムのあいだの長い方を「授業時間」と呼び、短い方を「休み時間」と呼ぶことがわかってほっとしていた。
どうやらここは、それを交互にくり返す場所であるらしいこともわかってほっとしたが、なんでこんなことをしなければならないのか、こんなことがずっと続くのかがわからず、釈然としなかった。
毎朝現れ、昼になったらいっしょにご飯を食べ、家に帰る前にも現れる「担任の先生」は年配のおじさんで、陽気な人だったが、ときどきへんなゲームをした。
あるとき、授業時間に「詩」がでてきた。
担任の先生は、自分たちでも書いてみなさい、といった。紙に書いて、先生の机の上に置いておきなさい、恥ずかしいなら裏返しておけばいいから、と。
「詩」は、わたしの心をとらえた。
ほかの何人かの心も捉えたようで、その日のうちに何枚かの紙が先生の机の上に置かれた。
つぎに先生が現れたとき、先生は机の上に置かれた何枚かの紙に気づき、すぐに目を通した。
満足そうに微笑んで、いくつかの詩を声にして読み上げた。
わたしが書いたものも読まれた。
ぱあっと気分が明るくなった。
「詩」は、ますますわたしの心をとらえた。
先生の机に置かれる紙は、日に日にすくなくなっていった。
自分の書いたものが読まれることがなくても、心がとらえられたままだったので、わたしは書いた。そして机に置いた。
ほっとしていた。
これをすることが、この退屈な場所に毎日くる理由だと思ったから。
ある日、紙を置いたのがわたしだけになった。
いつもそうしていたように、書いた面を伏せて机に置いたので、あれは一見するとただの半分に切った紙に見えたと思う。
たくさんの書類からはみでた、ただのメモ紙ように。
だから、あれは仕方のないことだった。
あの日、机の紙を見るや否や、先生は、それまで必ずしていた、紙をひっくり返して裏を見るということをせず、ためらいなくその紙を手に取り、鼻をかんだ。
ぶん、という、それはそれは大きな音をたてて。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。