2019
07.21

根なし草

エッセイ, ライフ

 

とあるスポーツ選手の対談動画を見た。

おなじチームに所属していた外国人のふたりが、引退して数年たったあと、その国の言語で対談するものだった。

高いところにある、遠くまで見渡せるよく晴れたテラスで、奥にうっすらと糸杉が立ち並んでいた。

くっきりとした屋根の影から、空気が乾いていることが伝わって、相槌のあいまに飲むコップの水がとても正しい飲み物に見えた。

その向こうでパトカーのサイレンがひっきりなしに鳴っていて、景色はいいのに騒々しい、不思議な国だと思った。

 

根なし草。

その動画を見ていて、かつてその国の言葉を勉強していたとき、そういわれたことを思いだした。

授業で、その単語がでてきて、単語からすぐに意味を理解できなかった生徒たちのために、先生がわたしを指し、「彼女みたいな人のことよ」といったのだ。

先生がどんな意図でいったのかはわからないが、驚いた。

たしかにそこは日本ではなかったが、その国の人は先生しかおらず、ほかはみんな外国人ばかりだった。

必ずしも好意的な意味とは思えなかったので、その中でわたしだけが根なし草にたとえられたことはちょっと不快に感じたが、それをいえる言語力があのときのわたしにはなかった。だからなにもいわなかった。

わたしが根なし草ではないことは、わたしがよく知っていた。

日本には自分の家があるのだし、その国には期間を決めてたまたまいただけだ。

だからわたしは根なし草ではない、とつよく思ったが、あのとき大事だったのは、その単語の意味を理解することであって、わたしが根なし草ではないことを表現することではなかった。

 

スポーツ選手の対談は、日本人と南米人のものだった。

どちらも名前を聞いたことがある選手たちで、スポーツにくわしくないわたしが聞いたことがあるのだから、スポーツにくわしい人たちにとっては超有名人だと思う――し、実際そのスポーツをやっていた人にとっては、たしかに彼らは英雄だったそうだ――。

そのふたりが、引退後のことについて話していた。

引退後のことを、南米人の選手はずっと考えていたという。現役生活は望まなくても終わるし、考えないわけにはいかない、と。いまは、家業の農業を継いでいるといっていた。

一方日本人の選手は、将来を考えることはないといった。一日一日、すべてのことに全力に向かっているが、将来は考えない、と。

それは、とてもすごいことのように聞こえた。

毎日を100%で生きることは大切なことで、大変なことだ。それができるからこそ、名門といわれるチームで英雄と呼ばれたのだと思う。

でも、将来を考えないことを想像したときの一抹の不安は、将来を考えないことと、毎日を全力で生きることは、本質的に相反することだからではないか。

 

いまになってわかる。

根なし草、という言葉は、その人がそう見えたから思い浮かんだのだ。

人生は、生きているあいだのためだけにあるのではなく、その先の永遠に続くもののためにある。

将来を考えないということは、その人はその概念をもっていないということだ。それはひどく寄る辺なく、頼りないことだ。

いくら英雄と呼ばれた人でも、人生の現役生活は必ず終わるのに。

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