07.20

へんなルール、その先
へんなルールは、まったく同じものでないがよく似たものに、大人になるにつれて出くわすようになった。
ということは、小学生のクラスにあったあのへんなルールは、結果的に、大人になったときの予行演習になったということだ。
給食のときに口をきかず、おかわりをすることが先生のさじ加減ひとつで許されたり許されなかったりするルールに、どんな意図が込められていたかは知るよしもない。
でも、その思いつきがある種の方向性をもった思いつきで、その方向がへんな方向なら、そこからでたルールはへんなルールになるほかない。
あのとき先生は、どこまでへんなルールの中でものごとを行うか、男の子を試したのではないか。
先生に二度目のおかわりを許されなかったとき、男の子は、声にだして訴えることもできた。「なんで?」といえばよかった。「食べたいです」と。「だめな理由が聞きたいです」と。でも男の子はしなかった。
先生は、そのことを確認したかったのではないか。
そのことというのは、口をきかないというルールの中で、男の子がほんとうに口をきかないかどうか。
あのとき男の子におかわりを許さず、だまって首を横にふりつづけた先生を得体がしれない生き物のように感じたのは、冷酷だったそのことよりも、その冷酷さの目的を本能が察知していたからかもしれない。
ルールを守ることは大事で、そうでないと世の中が大変なことになる。
でも、ルールを守っていれば大変にならないかというと、そうではないことがいまの世の中でよくわかる。
それは、ルールを守りすぎる人たちが、一部のルールを守らない人たちが世の中を大変にしていることを止められないからだ。
小学校でのあのへんなルールは、そのルールを守りすぎる人たちをつくりだすことの準備になっていたと思う。
つまり、一部のルールを守らない人たちが世の中を大変にすることが止まらないことの準備に。いいかえると、ルールを守りすぎる人たちが一部のルールを守らない人たちの犠牲になることの準備に。あるいは、世の中がルールを守らない人たちだけが生きることができるように。
先生が、あのへんなルールを突然始めた目的は、最初からそれだったのではないかと考えるとぞっとする。
学校では大切なことをおしえてくれない。
たとえば生きていくのにお金は必要不可欠なのに、学校ではお金についてなにもおしえてくれない。そのくせ、へんなルールで空腹を満たすことをできなくをしたりする。
ルールを守ってさえいればお金や食べ物が向こうからやってくるわけでもないのに、そのことをおしえないから、大人になってお金の勉強をしようとして、一部のルールを守らない人たちにだまされたりする。
学校は、もしかして最初からそれが目的なのだろうか。
子どもにはお金のことをおしえないから、お金以上に大切なものがあるということ知るのが遅れる。
あのときの男の子は、へんなルールが解除されたあと、もりもりおかわりをしていた気がする。
以前よりも手際よくおかわりをついで、へんなルールにやり込められたことなど忘れたかのように、そんなものに屈しないとでもいうように。
気がするだけかもしれないが、あの先生が、最初からそのことをおしえたかったのならいいなと思う。