2019
07.18

蝉が鳴く

エッセイ, ライフ

 

 

おもての気温を、暖かい、ではなく、暑い、と感じると、蝉が鳴く。

初夏、気温のわりにむっとする日が続き、暑いと感じはするが、でもこれは「暖かい」の延長だ、と思っているのに、突如、きょうのこれは「暑い」だ、日差しを表す音は「じりじり」だ、と思うや否や蝉は鳴く。

だから、蝉には日差しセンサーがついていると思っている。

蝉センサーは優秀だ。殻から抜けてふやけたからだを干すのに、「じりじり」だとあっというまに乾くことを知っている。

朝干した洗濯物が昼間には乾いていたら気分がいいもの。蝉も、これからあちこちに飛んでいくための羽がすぐに乾いたら、どこへだって飛んで行ける気になって、やる気に満ちるのではないか。

じりじりの日差しの日の第一声は、蝉の生きる喜びの声だ。

 

歓喜の声をあげた蝉は、しかし、短いと聞く。一週間とか一か月とか。

でも、子孫を残すために生まれて、周りのことなどお構いなしにじゃんじゃん鳴いて、朝も夜も鳴いて目的を果たして死んでいくなら、さぞ満たされた蝉生だろうと思う。

一週間のあいだにどれだけの蝉がちゃんと子孫を残せるのだろうかと余計な心配をするが、蝉の種類によって大発生する周期が異なるものがいると、むかし本で読んだことがある。

その周期が素数で、ともに生息する地域はないらしい。

他蝉と競合しないように、うまくできているというのだ。

それは、種の保存というより個体の生存のためらしいが、蝉でも個体として有利にいきることが本能に組み込まれているなら、人間はもっと個としてよりよく生きることができるはずだ。

それなのに、なかなかそうできない人が多いいまの人間社会は、生まれてきた目的が果たしにくくなってしまっている世界だと思う。

人によっては自殺してしまうのは、このまま生きていても生まれてきた目的が果たせないということを本能的に察知した、その体現なのかもしれない。

自殺がほんとうに自殺なら。

 

いま目の前にあることがつらすぎて、楽になることの手段として死ぬことを選ぶなら、でもそれは誤解している。

死んで目も前のつらさから逃れることができたとしても、決して楽にはならない。

そもそも死んで終わりじゃない。人は、死んでも終われないのだ。

このまま生きていても生まれてきた目的が果たせないと思うなら、生きることを「このまま」でなくすればいい。

いままでやってきたことをやめ、いままでやってこなかったことをやってみる。

変えてこなかったことを変え、変えられないと思い込んでいたことを変えられると信じる。

こんなことで終わるために生まれてきたんじゃない、と。

蝉はきょうも鳴いている。

 

■引用・参考文献・資料

吉村仁『素数ゼミの謎』文藝春秋

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