2019
07.17

懐かしい気持ち

エッセイ

泳げるということ」、「運転できるということ」で共通していたのは、「こわい」だった。わたしを泳げなくさせていたこと、運転できなくさせていたものは。

できる人にとってはなんともないことも、できない人にとってはどうしてもできないというのは、だいたい、この「こわい」が悪さをしている。

 

それで、なにをこわがっていたのかと自身をふりかえる。

泳ぐことについては、溺れることや、溺れないにしても水を大量に飲んでしまうこと、鼻に水が入って痛いことと、あと、水着姿になるのがこわかった。

自動車を運転することについては、だれかをひいてしまうことや車や物とぶつかってしまうということと、自分で管理ができないことがこわかった。

生命や身体の危機への恐怖はともかく、そのあとのものはただの思い込みだ。

こわがる必要のないもの。気にするまでもないもの。

最初はなんとなくそう思っていたくらいの「こわい」が、いつのまにかふくれあがり、へんなふうにふくれあがり、手のつけられないなにかに思えるようになっていた。

でもそれは、ただの思い込みだ。

適切なこわさをもつべきなのは、だから命を失うことだけだと思う。

死ぬことが納得できないこと。

死ぬことをこわがったまま死ぬこと。

 

不慮の事故はないとはいえないから、そうならないために準備する。

泳げるようになる途中、あるいは泳げるようになってからも、水を飲むことはあるだろうし鼻に入って痛くなることもある。

でも、それらのことで一時的に不快に感じることはあっても、それらのことが原因で死ぬことはないのだし、だから、泳ぐことを避けるのではなく、死なないための準備をきちんとしたうえで泳げるようになったら、水を飲んだり鼻が痛くなったりすることで感じる不快以上の快感を得られることになる。

実際、泳げるようになったことで、こわがることがひとつ減った。

そして泳ぐ習慣をもっていたときは、なんだか元気だった。

なんだか元気、というのはとても大事なことだと思う。

自動車を運転することもそうだ。行動範囲がうんと広がった。

行きたいと思うところに自分で行かれること、その範囲が広いということ、なんだか元気であること、は、なにかをしようとするとき、じつは想像する以上に影響していると思う。

 

ずっと怯えていたことが、ほんとうは怯える必要がなかったことだと実感するのは、懐かしい。

会いたいと思っていた人がずっとどこかに行っていて会えなかったのに、ある日ひょっこり、やあ、と笑って現れたときような、あの不意のよろこび。

会いえたうれしさと、会えなかった寂しさと、心配していた苦しさと、でもちっとも心配する必要などなかったのだとわかった安堵がないまぜになった、ちょっと痛い、でも晴れやかな気持ち。

知ってる、と思う。ほんとうはずっと知ってた、と。

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