2020
05.03

『フランス料理の歴史』とパリ中心の中華思想

BOOKS

 

安倍晋三が糾弾されている。

武漢発の新型コロナウィルスにかかる給付金の支給が遅いことや、緊急事態宣言が延長されること、職を失った人たちの犯罪や自殺のニュースが、国民の安倍晋三への怒りを増長させている。

いまにはじまったことではない安倍晋三の無能は、安倍晋三を通じて日本国民を無能でいさせたいだれかにとってはひどく有能なはずだ。

そう考えると、安倍晋三を辞任させようとする動きは、怒りの矛先が初源者である中国共産党にむかないよううまく誘導されている。

海外では、中国による新型コロナウィルスへの誤った対応によって多くの命が失われ、深刻な経済的影響がでたとして責任追及や損害賠償を求める訴訟が多く起こってきているにもかかわらず、日本においては、首相である安倍晋三が、本人の自覚の有無を問わず、その見事なまでの無能さをもって、結果的に身を挺して中国共産党を守っている。

どれだけ非難されても、決してコロナパンデミックの初源者が中国共産党であることに言及しない安倍晋三は、中国共産党にとって有能な工作員といえる。

 

 

ところで、中国・武漢P4実験室のウィルス製造の担当研究員・石正麗が、その研究データをもってフランスに亡命したという。

新型コロナウィルスの感染者を多くだしている国は中国共産党との縁がふかい国だといわれるが、中国とフランスにもいくつかの共通点がある。

世界三大料理に含まれる中華料理とフランス料理は、どちらもタブーとされている食材がない。

どちらも腹いっぱい食べることをよしとし、吐いても食べるほど食への執着がつよい。

日本語の「おはよう」や「こんにちは」にあたる挨拶言葉が、中国では「你吃饭了吗?」(ごはん食べた?)だと知ったときは驚いたが、中国人が食べきれないほどの料理をだしてもてなすのは豊かさを示すための見栄だと本で読んだとき、フランスではレストランやカフェのテラス席が店内の席より料金が高く、多くの場合白人ばかりが通されるという話を思いだした。

白人至上主義は、名前をかえた中華思想だ。

むかしソムリエをしていたときの観察から、フランス料理の料理人とイタリア料理の料理人はどうも水と油らしいが、とはいえイタリア料理も高級になればテーブルマナーはフランス料理のそれと変わらないことや、そもそもなぜ食卓でああも形式ばったことがくり広げられるのかについては、結局わからないままだった。

 

中華思想の源である儒教は為政者の統治のための哲学で、儒教の祖・孔子は「礼」を重んじた。

その「礼」は忠誠を示すための食人を肯定し、皇帝や目上の者に礼を尽くす者とそうでない者を分けた。

そしてフランス料理に代表されるテーブルマナーもまた「上層階級と下層階級を識別する」ためのことであった、と『フランス料理の歴史』で読んで、パリを中心とした中華思想がフランスを動かしてきたことを知る。

 

 1503年、ロッテルダムのエラスムスは『幼児の精神的礼法(Civilitate morum puerilium)』と題する本を出版した。フランスでは『幼児教育』という題で翻訳されたが、そこには「礼儀(シヴィリテ)、すなわち社会の中での自らの振る舞い方が取り上げられている。さらに食事の作法に関しては、長文の一章を充てている。この書物は、ヨーロッパの多数の言語に翻訳され、大きな成功を収めた。ノルベール・エリアスによれば、「礼儀」という言葉の登場は、当時の社会生活の変化の表れであり、その象徴でもある。そして「礼儀」が宮廷社会を支える屋台骨となる。礼儀は、人間が社会の中でなすべき行動、ことに「肉体の外観の装飾(externum corporis decornum)」、つまり体の外見、自分の見せ方、人前での振る舞い、こうしたものに対するすべての対処法を包含している。この本が端緒となって、「上品なマナーと行儀作法の手引き」という文学ジャンルが生まれ、数世紀の間、文句なく好評を博した。

礼儀の目的は、社会の「上層階級と下層階級を識別すること」である、とエラスムスは述べている。マナーは社会階層の区分を明らかにするための手段となり、中でも、体を使って人前で演技して、身振りを抑えながら食物を摂る、こうしたことからテーブル・マナーが最重要視された。異なる国の人々が共通の言語を使って表現し合う、これもマナーと関連する現象だ。ラテン語の果たした役割を引き継いで、新たな国際共通言語となったのは、まずイタリア語、続いてフランス語である。この新たな共通言語と新たな社会事象つまり礼儀によって、ルネサンス時代のヨーロッパに社会的統一がもたらされた。(p.51-52)

 

つまりテーブルマナーは、選民のための手段というわけだ。

そしてフランス料理には、「アングレーズ」「アメリケーヌ」「モスコヴィット」「牛フィレ肉のウェリントン風」「伊勢えびのベルヴェ風」「エサウ風ポタージュ」「クレーム・シャンティ」「ジビエのピュレのポタージュ、ロッシーニ風」など、地名や国名、有名人の名前がついた料理が特徴的だが、それは必ずしも調理法をあらわすわけではない。

とりわけ人名がついた料理名は、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した美食家グリモ・ドゥ・ラ・レニエールによる食味審査委員会の手で一般化し、フランス以降に爆発的に増えたが、人名がついた料理を食すことは、その料理を食べることでその人物と同一化、あるいは優越する意味が込められていた。

 

「去勢鶏は、もはや大切な機能を取り上げられた恥ずべき鶏ではなく、スターと一体化し、それ自身がスターとなる」。つまり、料理は食べる人を特権階級というパンテオンに引き上げ、その料理を食べることによって聖なる名前の持主の威光と気品に同化し、自らの体内にとりこんだという幻想をもつ。

こう考えると、大革命後にこのような事態が爆発的に増えた理由がよくわかる。正当性を切望する成金にとって、「米のコンデ風」を食べることは、大貴族のひとりを象徴した食物を食べて、自らが貴族になることを意味する。

(中略)

グリモ・ドゥ・ラ・レニエールにとって料理名とは、何よりも料理のイメージを喚起する私的な役目を担い、食の快楽を増大させるものであった。とはいえ、料理名がその時代のメンタリティーや政治的な大混乱を経験した直後の社会の夢と野望を映し出している一面も忘れてはならない。

地方名、国内外の町の名、国名など数多くの地名が物語っているのは、中央集権であると同時に世界の中心としてのフランスという、ナポレオン神話である。たとえばカレームもはっきりと影響を受けている。

フランスのまわりにはヨーロッパの国々ばかりか、世界中が寄り集まっている。アメリカ、インド、中国、モンゴル…。つまり全世界がフランスのまわりをまわっているのだ。(p.130-132)

 

人名がついた料理を食べることで、貴族でない者が貴族になったと錯覚したり、野望が果たされたと幻想してしまえる感覚は、中国の医食同源、とりわけ臓器狩りや食人を正当化する性質とよく似ている。

そしてフランスには世界が寄り集まり、世界はフランスを中心に回っていると考える様はまさにパリ中心の中華思想だ。

そうして発展したフランス料理はフランス革命にともない、ハプスブルク家によってロシア、ドイツなどの宮廷に広まった。

それらの国にはのちに共産主義が広まったのも偶然ではないはずだ。

 

選民のための手段なら、食でなくともものごとは義務となり、よろこびは消え失せる。

だからレストランガイドブックで星が取れなかったという理由で、料理人が自殺する。

選民的な優越思想がいきつくのは、最終的にはトップに立つ者が死ぬことで、それは、いまは選民しているつもりの者にいつもつきまとっている恐怖だ。

 

ややこしいテーブルマナーはそういう遊びだと思えば、おいしいものに出会う機会は増え、おいしいものを食べることはたしかに人を幸せにする。

個人的な観察の結果だけれど、食べることが好きな人には心の豊な人が多い。

それは、高級か否かを問わず、目の前にあるおいしい料理はだれかが自分のために作ってくれたものだという単純な事実を認識するとき、人は守られ、支えられていることを実感するからだ。

心豊かな人は、そういう実感の累積だ。

 

■参考図書

ジャンピエールプーラン・エドモンネランク著、辻調グループ辻静雄料理教育研究所山内秀文訳『フランス料理の歴史』KADOKAWA、2017年

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