07.13

書くことの効用
「逃げないということ」で書いたが、わたしはある特定のことがらから逃げてきた。
ある特定のことがら、は、言いかえると、したいこと、なのだけれど、でもそれは、ただ欲に従うということでなく、そんなふうに生きたいというものだ。
でも、なんだかんだと理由をつけて、そうなることの準備を怠ってきた。
「理由」は、そのときどきの自分にとってはもっともなことに思えたものだった。
けれど、その理由を基準にものごとを選択した人生は、苦しかった。
それで人は、というよりわたしは、いくらそれ以外のことが叶っても、一番望んでいることが叶わないと人生に絶望することを知った。
とはいえ、これはわたしだけでなくすべての人に当てはまることだと思う。
たとえば、行きたい旅先があって、でも予算も時間も足りない。
だから、いまある予算と時間でまにあう先に変更しておきながら、いざその旅先から帰ったあとで、やっぱりあっちに行きたかった、と思う。
一番目の願いを叶えようとしないのは、これに似ている。
もうすこし予算と時間を作ってあっちにいけばよかった、と思っても、ありったけの貯金を使ってしまったのでお金もないし、お金がないから働かないといけない。
やがて、毎日のように忙しく働いているうちに、もうすこしであっちに行かれたという現実も、まるで夢だったみたいに非現実的なことに思えてくる。
自分にはとても大事な行き先だったはずなのに、まにあわせで済ませてしまった、という思いにさいなまれる。
さいなまれるのがつらいから、いや、行った先もじゅうぶん素晴らしかったと考えるようになる。
それはたしかにそうなのだけれど、そうしているうちに、行った先はあっちよりも素晴らしいはずだ、と考えるようになり、むしろあっちには行かない方がよかった、になり、あっちには二度と行くまい、となる。
これを欺瞞というが、人は、生きていくために、あるいは、死なないために、目の前のものを頼ろうとしてしまう。
たとえば、恒常的に暴力を受けて育った子どもは、暴力をふるう父親や、それを傍観した母親を、「自分を愛しているがゆえに暴力をふるい、傍観した」と考えるようになるらしい。
そんなのはおかしい、と思うけれど、でも、一番の願いを叶えようとせずに、理由をつけてそれ以外のことで満足して生きようとするのは、性質としては自分にたいする暴力とおなじではないか。
子どもが親から愛されたいと願うように、自分は一番目の願いを叶えて生きたいのに、自分が自分から奪うなら、人はなんのために生まれてきたというのだろう。
人は、どんな人も、夢をあきらめるために生まれてきたのではない。
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