2019
07.11

苦い野菜

エッセイ

ゴーヤを食べた。

豚肉とにんじん、豆腐と卵と炒めて食べた。

縦に半分に割られ、さらに横に薄く切られ、かつ油で炒められてもあまり変わらない、ぎょっとする佇まいのひとつひとつを箸でつまんで口に入れ、苦いとわかっているのだけれど噛んで苦いことを確かめて飲み込んだ。

夏だ。

そう思うと、苦いとわかったそばからすぐまた確かめたくなって、ぱくぱく食べた。

ああ苦い、やっぱり苦い、と、まるで、長い外国旅行から帰った友人が、風貌こそ変わり果てていても友人の友人たる性質がなにも変わっていなかったことにほっとするように、苦いと思っている野菜がほんとうに苦い事実をよろこびながら、苦い野菜をおいしいと思うようになったのはいつからだろうと考えた。

子どもの頃は好きではなかった気がする。

もともと食べることが好きだったので、どんな食べ物も、大嫌い、と思うことはなかったはずだ。でも、苦い野菜を積極的に選んで食べてもいなかったはずだ。

いまのようにしみじみと、ありがたがって摂るようになったのは、一体いつなのだろう。

 

苦いものは苦い。

大人になって苦い味が甘い味に感じられるようになったなら、それは味覚障害で、苦いものは、子どもの舌にも大人の舌にも苦いはずだ。

ちがうのは、だから「苦い」にたいする認識だ。

子どもは苦いものを苦いゆえに嫌い、大人は苦いものを苦いゆえに好く。

すると、苦い野菜をおいしいと思うようになったのは、「苦い」にたいする認識が変わったときではないか。

そういえば、山菜や野菜の苦味やえぐみは、植物が自らを守るために作りだされた物質であると聞いたことがある。

その話を思いだすたびに、最初にこんな苦いものを食べた人は勇敢だったなあと感心し、でもなんでまた食べようと思ったのだろうと不思議がる。

食べるものに困っていたのだろうか、それとも飽食にうんざりしたのだろうか。

中には食べるのに適さなかったものもあったはずで、いまでも、たとえばニラとスイセン、ギョウジャニンニクとイヌサフランをまちがえて食べて命を落とした人の話をきくのだから、そしてそのどちらも、食用の方に強烈なにおいがあり毒性がある方が無臭だというのだから、悪臭を避けた結果が落命だったという現実にはなんともやるせない気持ちになる。

とはいえ、そのおかげでこんにちの食卓が豊かになっている事実には心から感謝する。

 

苦さは甘さを引き立てる。

そうなのだ。

苦い野菜と一緒に食べることで、豚肉やにんじん、豆腐や卵が、さらには、炒める前にひいたオリーブオイルや、細かく刻んだにんにくがほんらいもっている味の甘い部分を、苦い野菜なしで食べるときよりもうんと感じとることができている、そういうことに気づいた瞬間が、苦い野菜をおいしいと思った最初ではないか。

「良薬は口に苦し」は、「よくきく薬は苦くて飲みにくい。ほんとうに自分のためを思ってしてくれる忠告は、ありがたいが聞くのがつらい」という意味だが、それはほんとうに奇跡的なことだと思う。

ほんとうに自分のためを思って忠告してくれる人がいること、というより、この人はほんとうに自分のためを思って忠告してくれたのだ、と、思えるだれかがいることが。

 

苦いものは苦い。

何歳になっても苦い。

でも、その苦みを感じるからこそ、それまでの人生で起こってきたことごとにも、甘い部分もちゃんとあったこともわかるようになっていく。

これからも、苦みはあっても、それゆえの甘さもきちんと感じとれるであろうことも。

そうやって人生の味覚を鍛えていくことが、大人になるということだと思う。

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