2019
07.10

のこぎり

エッセイ, ライフ

 

のこぎりが与えられた。

折りたたみ式のもので、通常、歯は柄の内側にしまわれている。

使うときは、歯の先端、ぎざぎざしていない部分、人間でいうとぼんのくぼのあたりをつまみ、かちん、と音がするまで引く。

収納するときは、柄との境目についているつまみを押しながら、のこぎりそのものを折るつもりで力を込めると、への字に曲がってたたみこまれる。

歯のぎざぎざは、図鑑で見た鮫の歯のように二重になっている。

 

よく切れそうだ、と、いうより、よくちぎれそうだ、と、以前、夫が使っているのを見て怯えた。

いまは木の枝を切っているけれど、まちがって指を切ってしまったらどうなるだろうと想像した。

切り落とされた先端の指は、切り落とされていない指をずっとくっつけていれば、いずれつながるのだろうか。

それは、昔読んだ本の影響で、現実ではないと思いながらも、切ってしまえば血はたくさんでるだろうから、失血死しないようにしなければならないと思った。

そうすると、指は心臓より上、いっそ頭より上にあげておいた方がよいのではないかとも思った。
片方の指を反対側の手で握った状態で、頭上にあげておくのは、まるで、へたくそなすし職人が大げさに握って見せる一瞬に似てちょっと笑えるけれど、笑っている場合ではないので救急車がくるまでのあいだはそうしていないといけない。

救急車がくるまでのあいだ、呼んでもいないのに近所の人がくるかもしれない。

 

「あなたはどうしてそんな恰好をしているのですか」

問われたら、夫はなんとこたえるだろう。

「切り落としてしまった指をくっつけているんです」

と、冷静に答えるだろうか。

あるいは、

「なにをしているように見えますか?」

と、反対に質問するだろうか。

もしかしたら無視するかもしれない。

その場合、代わりにわたしが近所の人になにか答えた方がよいのだろうか。

しかし、そもそも近所の人にそんなごくプライベートな話をする必要があるだろうか。

近所の人も、指を切り落したという、自分にどうにもできないことを聞かされても、かえってどうにもできないという思いを抱え、思い悩むことになるのではなかろうか。

こちらの不注意で起こしたことで、他人を思い悩ませてはいけない。

 

だから黙っていよう、と、心に決めるまでもなく、十中八九そんなことにはならないのだが、一度はそこまで考えた、このよくちぎれそうなのこぎりを、わたしも使うことになったのだ。

草刈り機を得た夫は、バリカンで刈るような清々しさで、畑の雑草を短髪にしていく。

支柱や細い樹のそばには機械が近づけないために、雑草もわがもの顔で伸び放題だったのだ。

しかし、のこぎりは与えられた。

春先には軸の赤いほうれんそうのようだった、しかし7月に入ってオオバコのおばけのような姿に変わった名も知らぬ雑草に対峙し、のこぎりを斜め上から素早く振りおろす。

時代劇にでてくる日本刀で切られた竹のように、雑草は上下に分かれ、力なく地に倒れる。

集団には斜めから横から何度も切りつける。

切りつける勢いに乗って、ちぎれた葉っぱがゆらゆらと舞うのを尻目に、ひたすら切りつける。テンポよく、リズミカルに。

雑草も、まさかこんなふうに切りつけられる日がくるとは思ってもいなかっただろう。

しかし、のこぎりは与えられたのだ。

育ちすぎた雑草に、勝利するのだ。

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